勅許
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/11 03:50 UTC 版)
1632年6月20日、イングランド王チャールズ1世はアイルランド貴族第2代ボルティモア男爵カシラス・カルバート(セシル)に約1,200万エーカー (49,000 km2)の領主植民地メリーランドに対する勅許を認めた。歴史家の中にはこの勅許が、1625年にカシラス・カルバートの父である第1代ボルティモア男爵ジョージ・カルバートがカトリック教徒であることを宣言したときに国務大臣の肩書きを剥奪されていたことに対するある種の補償と見る者がいる。この勅許は当初ジョージ・カルバートに与えられたが、その実行前にジョージが死亡し、その代わりに息子カシラスに与えられた。この新しい植民地は王妃ヘンリエッタ・マリアに因んで名付けられた。ボルティモア卿はイギリス帝国の歴史の中で領主植民地を所有または獲得したことでは、唯一のカトリック教徒あるいはアイルランド貴族院議員だった。そのような他の貴族は全てイングランド、スコットランド、ブリテンあるいはイギリス王国の貴族称号を持っていた。 メリーランド植民地は現在のメリーランド州より大きかった。当初カルバートに与えられた勅許は、バージニア植民地の北から北緯40度線より南と不正確な定義があり、おそらくは1,200万エーカー (49,000 km2)ほどもあった。イングランド王チャールズ2世がメリーランド勅許と一部重なる勅許をペンシルベニア植民地に認めた後、メイソン=ディクソン線が引かれたことで2つの植民地の間の論争を解決し、1760年代に当初想定されていた領土の一部をペンシルベニア植民地に渡した。アメリカ独立の後には、コロンビア特別区を創るためにその領土をいくらか割譲した。 メリーランド設立の勅許では、「パラタイン領主」ボルティモア卿によって統治される状態を創った。支配者としてボルティモア卿は勅許で認められた土地全てを直接所有した。その領土に対して絶対的な統治権を持った。開拓者達はイングランド王に対してではなく、ボルティモア卿に対する忠誠を誓わされた。勅許は「荘園領主」の貴族も生み、ボルティモア卿から6,000エーカー (24 km2)を購入して、通常の開拓者達よりも大きな法的社会的特権を持った。
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