労組の闘争戦術転換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 04:34 UTC 版)
事件を受けて動労側も順法闘争を中止した。しかし労使交渉がまとまらず、動労は順法闘争を4月に再開した。なお、梅原らはこうした当時の労組の姿勢に批判的であった。その結果4月24日には赤羽駅での混乱をきっかけに、列車が到着しないことに対する利用者の不満が再び爆発することになる。この際は38駅で暴動が発生し、首都圏の国鉄網が麻痺し600万人以上の足に影響するという、上尾事件以上の大混乱となる首都圏国電暴動に発展した。国労・動労のストが一気に減少に向かうきっかけとなったのは1975年(昭和50年)末のスト権ストが失敗に終わった後のことであったが、それでもなお、ストは続いていた。 事件後、国労東京地本の職場集会や電車区分会では参加した乗務員から「首都圏での順法は嫌だ」「高崎線でやるのは怖い」と口々に意見が出ていた。この事件以降、組合の指令で順法を命じられても、順法闘争を行わず、遅れが出ていなくても組合には「○分遅れた」と報告するケースもあったという。 尾関が指摘した綱紀粛正に本格的にメスが入り始めたのは、国鉄分割民営化について第二次臨時行政調査会などで議論がなされるようになった1982年(昭和57年)、三塚博の抜き打ち現場視察などによって、最も腐敗した現場がマスメディアの前に晒されてから後のことであった。
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