ルー・フィン・チャウ
(劉瓊珠 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/20 04:33 UTC 版)
ルー・フィン・チャウ | |
---|---|
出生名 | ルー・フィン・チャウ(劉琼珠、Lưu Huỳnh Châu) |
別名 | イー・ニー(Ý Nhi) |
生誕 | 1966年3月23日(59歳) または 1967年6月23日(58歳) |
出身地 | ![]() ![]() |
ジャンル | 歌謡曲 |
職業 | 歌手 |
活動期間 | 1982年 - 1983年(日本) 1990年 - 1990年代後半(米国) |
レーベル | ポリスター |
配偶者 | ケニー・タイ(歌手) |
著名な家族 | ルー・ホン(父、演出家)、ファン・ミフン(母、女優) |
事務所 | オーロラ |
ルー・フィン・チャウ(劉琼珠[注 1]、ベトナム語: Lưu Huỳnh Châu[2][注 2]、広東語音: lau⁴ king⁴ zyu¹<ラウ・キンチュー>、1966年3月23日[5]または1967年6月23日[2] - )は中国系ベトナム人の難民として日本に来た元アイドル歌手、アメリカ合衆国の元歌手・実業家。本名同じ[6]。アメリカ合衆国における歌手名、イー・ニー(ベトナム語: Ý Nhi)[2]。ベトナム共和国(南ベトナム)サイゴン市(後のベトナム社会主義共和国ホーチミン市)出身。ベトナム語・広東語・英語・日本語の4言語話者[2]。
経歴
ベトナムにおける幼少期
父はサイゴンでは有名なクラブ「マキシム」のショーを演出しており、母親はその舞踏団のメンバーで女優であった。子供の頃からその稽古などを見て育ち、父の制作した映画に子役として出演したこともあった。
難民としての渡日と日本における歌手活動
9歳の頃に、母だけが舞踏団の日本公演のため、先に日本に行ったところ、サイゴンがベトナム民主共和国(北ベトナム)によって陥落して帰国不可能になり、それから4年以上の長きにわたり母との断絶を余儀なくされた。その後、統一されたベトナムでは中国系ベトナム人への弾圧が始まり、13歳で父や弟と共にボートピープルとして国を脱出。途中、タイの海賊に2度も襲われ、金品などを奪われるという経験もする。マレーシアのクアラルンプールの難民キャンプに落ち着き、日本の調査団が来て日本への受け入れを希望する。1979年8月、難民第一号ということで報道関係者が多数つめかける中、成田空港で1975年4月以来、4年4カ月ぶりに母と再会した[7]。
日本語ができないため、2学年下の座間市立相模が丘小学校の5年に入学。日本語習得のため一時期、神奈川県大和市に開設された大和定住促進センターへ入所する。他に日本の少女漫画を読んだり、演劇部に入ったりして語学力に磨きをかけた[8]。テレビで山口百恵主演の映画『絶唱』を観て、山口百恵のような歌手になることを決意する[9]。
1981年5月、定住難民へのチャリティーショーがあり、アグネス・チャンがきて広東語で会話をする。12月、『スター誕生!』(日本テレビ)へ応募の手紙を出し、翌年3月3日、後楽園ホールでベトナムの民族衣装の深紅のアオザイを着て山口百恵の『いい日旅立ち』を歌って予選通過、テレビの収録も行われる。決戦大会までの3ヵ月間、日本テレビ音楽学院で歌のレッスンを受ける。7月14日、第42回決戦大会で第73代グランドチャンピオンとなり、ポリスターからデビューすることが決まる[7]。
1982年12月24日に谷村新司作詞・作曲の「スター誕生」でデビュー。曲はマスコミで「ベトナム難民が歌手へ」と話題になりオリコン最高72位、売上1.7万枚。低く太いハスキーな声での歌い方が特徴。「いつか百恵さんのような歌手になりたい。」と誓ったことを、谷村新司がストーリー性のある歌詞にしメロディーをつけ、全面プロデュースもするという完全なバックアップ体制を採って支援。谷村は自分のラジオ番組でも頻繁にこの歌を流して、彼女を褒め称えた。テレビではドキュメンタリー番組も放映され、三宅直子によるルポルタージュ『難民少女チャウの出発(たびだち)』なども出版される[10]。
1983年1月17日、夜のヒットスタジオに出演、「スター誕生」を歌う[11]。2月12日には日本青年館で初コンサートを行う[9]。その年の12月に引退。
なお日本では、2016年6月22日、全発売音源ベストCD『スター誕生+2 コンプリート・コレクション』が発売された[12]。
渡米とその後の活動
1980年代後半に渡米し、カリフォルニア州ロサンゼルス近郊のリトル・サイゴン(ベトナム人街)に居住[2][13]。イー・ニー(Ý Nhi)名義で歌手活動を行い、越僑(在外ベトナム人)音楽家ホアン・ティー・トー主催のレビューコンサートに出演、越僑音楽界にデビューした[2]。その後、現地の「ベトナム芸能テレビ」(Vietnam Performing Arts Television)で様々なコントやミュージックビデオ、インタビューに出演するなどし、1990年代の越僑ミュージックビデオのスターの一人となる[2]。
1990年、アメリカの越僑歌手であるケニー・タイ(Kenny Thái)と結婚、後に2児を儲ける[2]。
1990年代半ば、自身の音楽プロダクション会社イー・エンターテイメント(Ý Entertainment)を設立[2]。また、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ヨーロッパ各地で、越僑に向けてライブショーを開催した[2]。
1990年代後半、音楽活動を辞め、実業家としての活動に専念[2]。カリフォルニア州ガーデングローブの商店セイヴ・ロッツ(Save Lots)および美容専門学校サドルバック・ビューティー・アカデミー(Saddleback Beauty Academy)の経営で成功を収めている[2]。
ディスコグラフィ
- シングル
- スター誕生(1982年12月24日、ポリスター)
- c/w 燃ゆる瞳
- 愛をとどけて(1983年、ポリスター)
- c/w 浜百合のシルエット
- 北物語(1983年、ポリスター)
- c/w 愛のプレリュード
- アルバム
- スター誕生(1983年、ポリスター)
- A面
- 愛をとどけて
- ありふれた黄昏の街にて
- 愛のプレリュード
- もしも神様がいるのなら
- 秋止符
- B面
- いい日旅立ち
- 浜百合のシルエット
- イニシャルM.K
- 紙舟
- スター誕生
- スター誕生+2 コンプリート・コレクション (2016年、ウルトラファイヴ)
- 愛をとどけて
- ありふれた黄昏の街にて
- 愛のプレリュード
- もしも神様がいるのなら
- 秋止符
- いい日旅立ち
- 浜百合のシルエット
- イニシャルM.K
- 紙舟
- スター誕生
- 燃ゆる瞳
- 北物語
脚注
注釈
出典
- ^ 三宅 (1983), p.240掲載ルー・フィン・チャウ自筆メッセージの写真。
- ^ a b c d e f g h i j k l m Y Nhi on VietCeleb.BlogSpot.com.
- ^ Vũ, Văn Kính (1991), Tự Điển Chữ Nôm, NXB Hồ Chí Minh, p.234, 775, 1115.
- ^ Pham, Andrea Hoa (2008), "The Non-Issue of Dialect in Teaching Vietnamese", Journal of Southeast Asian Language Teaching 14, p.11.
- ^ 三宅 (1983), p.65。
- ^ 三宅 (1983), p.66, 278。
- ^ a b 三宅 (1983)。
- ^ 『明星』1983年6月号 p.139。
- ^ a b 『近代映画』1983年3月号pp.134-135。
- ^ ベトナム難民希望の星?「スター誕生」 ルー・フィン・チャウ。
- ^ 夜のヒットスタジオ出演歌手一覧。
- ^ “ベトナム難民のスタ誕アイドル、まさかの復刻!”. ナツメロ喫茶店. 2023年12月15日閲覧。
- ^ 異文化を受容する優しいまなざし『読まずに死ねるかこの1冊』第7回。
参考文献
- 三宅直子『難民少女チャウの出発』近代映画社、1983年1月30日。ISBN 978-4764812543。
- ルー・フィン・チャウのページへのリンク