分裂・エリトリア内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 13:57 UTC 版)
「エリトリア解放戦線」の記事における「分裂・エリトリア内戦」の解説
ELFの活動はエチオピア帝国政府及びエチオピア軍に対して順調に成果を挙げていたにもかかわらず、1970年6月になると、オスマン・サッベ率いる成員の一部が分派し人民解放軍(PLF)が結成され、その一部によってマルクス主義者・キリスト教徒を中心とした組織・エリトリア人民解放戦線(EPLF)が結成された。1972年から1974年にかけて、エリトリア内戦がELFとEPLFとの対立を中心に行われた。同時に進行したエチオピアからの攻勢もあり、その結果独立運動の中心的役割がEPLFに移るとともに、総てのエリトリア独立勢力が疲弊した。1975年初頭にEPLFとELFは一旦和解したものの、1976年と1977年にエリトリア解放戦線人民解放軍を率いるオスマン・サッベを仲介とした和解交渉に失敗し、1980年から1981年にかけて第2次エリトリア内戦が行われ、結果ティグレ人民解放戦線(TPLF)とエリトリア人民解放戦線(EPLF)との連合にELFは敗れ、1981年にスーダンへの退去を余儀なくされた。この際にスーダンへ退去しなかった勢力はELFから分派しエリトリア解放戦線革命評議会(ELF-RC)を形成した。1982年にはマルクス主義を信奉する一部勢力がエリトリア解放戦線中央司令部(ELF-CC)を結成した。この時期にエリトリア解放戦線統一組織(ELF-UO)も分派している。1991年にエチオピアのメンギスツ政権が倒れるまでに、ELFもまたエリトリア領内に再突入した。しかし1993年5月24日エリトリアのエチオピアからの独立が国連の承認を受けると、EPLFは1994年2月民主正義人民戦線(PFDJ)に改称・改組して一党独裁制を布き、かつてのELFの成員に対して大規模な結社を行わないか再びスーダンに退去するかの選択を迫った。
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