共同使用と村施設の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 14:49 UTC 版)
「読谷補助飛行場」の記事における「共同使用と村施設の建設」の解説
1978(昭和53)年、米軍基地の軍民「共同使用」という形で飛行場北側に村民運動広場が建設され、海邦国体の会場となった。続いて村では1985(昭和60)年読谷飛行場転用計画を策定。飛行場一帯を「南北市街地の間にあり」「255.5haと大規模であり、沖縄にとっても大きな開発可能性を有している」「国道58号に近接し、県道に囲まれた交通至便の位置」「中南部都市地域と北部観光レクリエーション地域とを結びつける役割を担って」いるとし、その中核に村役場庁舎の建設を盛り込んだ。1995(平成7)年に着工、1997(平成9)年に竣工したが、この時点では飛行場の返還を待たずに米軍と村との共同使用 という形を取っていた。つまり「軍用地に庁舎がある」状態が2006(平成14)年の完全返還まで続くが、1990年代以降はすでに米軍基地としては遊休化していたというのが実態であった。(同様の例に、キャンプ桑江に建設された北谷町役場がある。)
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