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八隅錦三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/12 01:31 UTC 版)

八隅 錦三郎
生誕 1889年5月4日
日本 福岡県
死没 (1960-07-22) 1960年7月22日(71歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1912年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
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八隅 錦三郎(やすみ きんざぶろう、1889年明治22年〉5月4日[1] - 1960年昭和35年〉7月22日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴・人物

福岡県出身[1]1912年(明治45年)陸軍士官学校第24期卒業、陸軍工兵少尉に任官[2][3]

1938年(昭和12年)工兵第101連隊長(上海派遣軍第101師団)に任官し、支那事変に出征[1][4]。クリーク争奪戦、武漢作戦、南昌会戦などで連隊を率いた[1]

その後、1939年(昭和13年)陸軍工兵大佐1940年(昭和15年)陸軍工兵学校教導隊長、1941年(昭和16年)第2工兵隊司令部附を経て、大東亜戦争に入ると1942年(昭和17年)7月に第1工兵隊司令官(関東軍第5軍)となり出征した[2][4][5]。さらに同年8月に陸軍少将1945年(昭和20年)4月30日には陸軍中将に昇進[1]。同年5月5日陸軍歩兵学校附、翌月の6月1日には第320師団長(関東軍、第17方面軍)に補任し、釜山付近で陣地構築および練兵中に終戦を迎えた[1][2]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]

栄典

位階
勲章等

脚注

  1. ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』741頁。
  2. ^ a b c 『日本陸軍将官辞典』742頁。
  3. ^ 『官報』第122号、大正元年12月25日。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』317頁。
  5. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』318頁。
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」193頁。
  7. ^ 『官報』第167号「叙任及辞令」1913年2月21日。前田錦三郎
  8. ^ 『官報』第5029号「叙任及辞令」昭和18年10月15日。

参考文献

  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。



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