充実の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 13:47 UTC 版)
父親は小田原藩士の岡本貞烋で、家庭は厳格を極めた。父の赴任先である群馬県高崎で生まれる。幼稚舎から慶應義塾普通部に進み、慶應義塾大学を卒業。 芸術としての俳句は正岡子規・河東碧梧桐に至って完成されたとの観点から、慶大在学中から正岡子規に師事。俳句、俳文、連句を学び、日本派、秋声会系の俳人として出発し、26歳の若さで第一期黄金時代の『ホトトギス』、『時事新報』の俳句選者を務め、松根東洋城、高浜虚子らと共に「俳諧散心(「日盛会」とも称した)」を唱える。虚子は東洋城、癖三酔の句に賛同する場合が多く、河東碧梧桐の新傾向淤の「俳句三昧」に対抗した。更に、慶大の同級生、籾山仁三郎(江戸庵)らと「三田俳句会」を結成。ここから久保田万太郎、大場白水郎らが育った。 ホトトギスを離脱、大正7年(1918年)に、有季自由律を標榜する俳句雑誌『新緑』を主宰し、途中から『ましろ』と改題し、20年間発行し続けた。発行の陰には、発行業務と編集のいっさいを引き受けた門人の尽力があった。更に『自画賛句帖』を100冊を作成。
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