側ヶ谷戸村
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「三橋 (さいたま市)」の記事における「側ヶ谷戸村」の解説
江戸期は武蔵国足立郡植田谷領に属する側海斗村(そばがいとむら)であった。村高は正保年間の『武蔵田園簿』では216石余(田13町余、畑20町余)、『元禄郷帳』では207石余、『天保郷帳』では215石余であった。助郷は中山道大宮宿に出役していたが、正徳・安永年間は日光御成街道大門宿にも出役していた。化政期の世帯数は32軒で、村の規模は東西8町、南北10町であった。荒川沿いに幕府領の八貫野新田を領していた。 はじめは知行は旗本山内氏、1602年(慶長5年)より幕府領となるが、後に知行は旗本伊奈氏となる。なお、検地は1603年(慶長6年)、1731年(享保16年)に実施。 1628年(寛永5年)より再び幕府領、1633年(寛永10年)より知行は旗本小林氏・多門氏の相給。小林氏知行分は下組、多門氏知行分は上組と称され、名主が置かれていた。 1828年(文政11年)より大宮宿寄場55か村組合に所属。 幕末の時点では足立郡に属し、明治初年の『旧高旧領取調帳』の記載によると、小林田兵衛および多門一角の知行。 1868年(明治元年) - 表記を側ヶ谷戸村に改称する。 1869年(明治2年)12月2日 - この日までに旗本領が上知され、浦和県の管轄となる。 1871年(明治4年)11月13日 - 第1次府県統合により埼玉県の管轄となる。 1879年(明治12年)3月17日 - 郡区町村編制法により成立した北足立郡に属す。郡役所は浦和宿に設置。 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、並木村・下内野村・側ヶ谷戸村・上小村田村・中小村田村が合併し、改めて並木村が発足。側ヶ谷戸村は並木村の大字側ヶ谷戸となる。 1891年(明治24年)12月23日 - 並木村が三橋村に改称される。三橋村の大字となる。 1940年(昭和15年)11月3日 - 大宮町・三橋村・日進村・宮原村・大砂土村が合併し、大宮市が発足。大宮市の大字となる。 1959年(昭和34年)4月20日 - 町名地番変更が行われ、大字側ヶ谷戸は三橋三丁目・四丁目の各一部となり消滅。 側ヶ谷戸村に存在していた小字 中郷・間の谷・井刈・台・荒久・二重川
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