側ヶ谷戸村とは? わかりやすく解説

側ヶ谷戸村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 04:21 UTC 版)

三橋 (さいたま市)」の記事における「側ヶ谷戸村」の解説

江戸期武蔵国足立郡植田谷領に属する側海斗(そばがいとむら)であった村高正保年間の『武蔵田園簿』では216石余(田13町余、畑20町余)、『元禄郷帳』では207石余、『天保郷帳』では215石余であった助郷中山道大宮宿出役していたが、正徳安永年間日光御成街道大門宿にも出役していた。化政期世帯数32軒で、規模東西8町、南北10であった荒川沿いに幕府領の八貫野新田を領していた。 はじめは知行旗本山内氏1602年慶長5年)より幕府領となるが、後に知行旗本伊奈氏となる。なお、検地1603年慶長6年)、1731年享保16年)に実施1628年寛永5年)より再び幕府領1633年寛永10年)より知行旗本小林氏・多門氏の相給小林知行分は下組多門知行分は上組称され名主置かれていた。 1828年文政11年)より大宮宿寄場55村組合所属幕末時点では足立郡属し明治初年の『旧高旧領取調帳』の記載によると、小林兵衛および多門一角知行1868年明治元年) - 表記を側ヶ谷戸村に改称する1869年明治2年12月2日 - この日までに旗本領が上知され、浦和県管轄となる。 1871年明治4年11月13日 - 第1次府県統合により埼玉県管轄となる。 1879年明治12年3月17日 - 郡区町村編制法により成立した北足立郡属す郡役所浦和宿設置1889年明治22年4月1日 - 町村制施行に伴い並木村下内野村・側ヶ谷戸村・上小村田村中小村田村合併し改め並木村発足。側ヶ谷戸村は並木村大字側ヶ谷戸となる。 1891年明治24年12月23日 - 並木村三橋村改称される三橋村大字となる。 1940年昭和15年11月3日 - 大宮町三橋村日進村宮原村大砂土村合併し大宮市発足大宮市大字となる。 1959年昭和34年4月20日 - 町名地番変更が行われ、大字側ヶ谷戸三橋三丁目四丁目の各一部となり消滅。 側ヶ谷戸村に存在していた小字 中郷・間の谷・井刈・台・荒久・二重川

※この「側ヶ谷戸村」の解説は、「三橋 (さいたま市)」の解説の一部です。
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