住居址について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 04:02 UTC 版)
環濠内部の北側から、1989年(平成元年)の発掘時に6基の住居址が検出された。続いて2009年(平成21年)3月の調査時に南側から3基の住居址が検出され、神崎遺跡からはこれまでのところ9基の住居址が検出されている。9基の住居址とも重複は見られず、楕円形に近い3号住居址と形状がはっきりしない6号、7号、9号住居址を除いた5基の住居址が隅円方形ないし長方形をしている。なお2、4、5号住居は建て替えが行われた可能性があり、特に4号住居は2度に渡って建て替えが行われた結果、当初楕円形に近かった住居が隅円方形に作り変えられたと考えられている。 神崎遺跡の住居址では、四本の柱が長方形に配され、入り口と反対側の柱同士を結んだ中間点付近に炉が設けられていた。なお弥生時代後期、関東地方南部では炉は長方形に配された柱の短軸側にある形式が一般的であるが、神崎遺跡の場合6基中4基が、炉が長軸側に設けられている。同様の住居址は神崎遺跡近隣では海老名市の本郷遺跡や藤沢市の西部211遺跡など少数例しか知られておらず、全体の形が隅円方形ないし長方形の住居が多数を占めていることとともに、同時期の静岡県西部から愛知県東部でよく見られる住居址に酷似している。 また2009年(平成21年)3月の調査時、3基のピットが検出された。調査範囲が狭かったこともあり、検出されたピットが何であるか明らかになっていないが、掘立柱建物址の可能性が指摘されている。 これまで確認された9基の住居址に全く重複が見られないこと、そして住居址から検出された土器に形式の変化等、年代の幅を示す要素が見られないことから、住居址はほぼ同一時期のもので、神崎遺跡が集落として存続した期間も短期間であったものと考えられる。
※この「住居址について」の解説は、「神崎遺跡」の解説の一部です。
「住居址について」を含む「神崎遺跡」の記事については、「神崎遺跡」の概要を参照ください。
- 住居址についてのページへのリンク