位置についての諸説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 05:46 UTC 版)
カピラヴァストゥは、法顕が5世紀に、玄奘が7世紀に訪れてそれについて書いたように、ブッダ入滅後1000年ほどは仏教徒の巡礼の地であったという。だがその後、この地域で仏教は影響力を失い、ヒンドゥー教やイスラム教がとってかわり、それらの宗教のもとにあったインドやネパールの国家ではブッダのことは語られなくなり、やがて14世紀ごろにはカピラヴァストゥの正確な場所が分からなくなった。 そうしてカピラヴァストゥは忘れ去られ、長らくの間一部の専門家だけが興味を持っていたにすぎなかったが、再び人々の大きな関心事となって浮上したのは20世紀も後半になってからのことだった。ネパール側とインド側で、愛国心などもからみ、位置を巡って異なった見解が唱えられるようになったのである。 一説では、現在の場所でいうネパールのタライ地方とされ、ティラウラコット(英語版)だと見なそうとする動きがある。また別の説では現在のインドのウッタル・プラデーシュ州シッダールトナガル県ピプラーワー(英語版)(ピプラフワとも) といわれる。ネパール側とインド側の見解の相違は解消されそうもない。ネパール側はピプラーワーはブッダが頻繁に訪れた王宮だと見なしているのに対して、インド側はピプラーワーこそがカピラヴァストゥだと定義しているのである。 日本では立正大学の研究員が1970年代にネパール当局との共同発表でティラウラコットをカピラヴァストゥと断定し、長澤和俊は一般人向けの多くの新書でこれが正解だとしているが、学界の通説ではない。坂詰秀一らは1980年代後半にタライ平原の仏教遺跡2箇所で発掘調査を行っている。
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