伝承に拠る生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 06:20 UTC 版)
以下はあくまで、伝承である。 元弘3年(1333年)新田義貞に鎌倉を攻められて鎌倉幕府は滅亡し、最後の得宗北条高時は自害した。 建武2年(1335年)高時の遺児・時行は御内人諏訪氏らに擁立されて信濃国で挙兵して関東に向かい足利直義を破り鎌倉を奪還した。しかし、足利尊氏・直義の反撃を受け、時行は敗れ鎌倉を奪い返された(中先代の乱)。 敗走した時行は武蔵国の豊島氏当主の景村に匿われ、景村の館で一子をもうけた。その後、時行は南朝に属して北朝(足利氏)と戦うが、正平8年/文和2年(1353年)に捕えられ、鎌倉で斬殺されたとされる。景村には子がなく、時行の子を養子にして後継ぎとした。元服して初めは小太郎景秀、後に改めて輝時。 景村は新田義貞、義興に属して南朝に忠勤し、従五位下左近大夫に任じられる。輝時も従五位下兵部大輔に任ぜられた。 北条氏嫡流の血をひく輝時だが時節かなわず、足利氏の支配に属したようで、鎌倉公方足利基氏に謁して養父からの家督相続を許されている。 応安5年(1372年)に道場寺(東京都練馬区)を建立し、豊島氏の菩提寺とした。 輝時の子の景則(豊島修理亮)は正平18年/貞治2年(1363年)付の足利基氏からの感状を受けている。景則には子がなく家系は断絶した。「泰盈本豊嶋氏系図」によれば、景村の甥の朝泰の家系へと豊島氏の宗家は移った(別説には景村は兄の子の朝泰の成人後に家督を返したともされる)。
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