伊治公呰麻呂の乱
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「日本の古代東北経営」の記事における「伊治公呰麻呂の乱」の解説
詳細は「宝亀の乱」を参照 宝亀11年1月頃、蝦夷の賊が北方より大崎平野に侵入して百姓に危害を加える事件が起こった。 宝亀11年2月2日(780年3月12日)、陸奥国司は船路を取って「微に遺れる賊」を掃討したいが北上川が凍って船を通すことが出来ず、今は「賊」の「来犯」が止まないので、まずその「寇道」を塞いで3月4月になって雪が消え雨水が満ちあふれたら直ちに軍士3000人を発して「賊地」に進み覚鱉城の造営を申し出る(覚鱉城造営計画)。陸奥国は覚鱉城造営の目的を単に賊の侵入路の遮断としているが、対して光仁天皇は胆沢の地を得るための軍事拠点とすべきことを主張して陸奥・出羽両国にとって最大の「恩(めぐみ)」であると理解を示して敕を発している。 宝亀11年3月、按察使紀広純が陸奥介大伴真綱と牡鹿郡大領道嶋大楯らを伴って覚鱉城造営の用務で俘軍を率いて伊治城に入城した。同年3月22日(780年5月1日)に此治郡大領伊治公呰麻呂が突如反乱を起こして広純と大楯の2人を殺害した。 数日後、賊徒(反乱軍)は無人となった多賀城を襲撃し、府庫を略奪、火を放って焼き払った。 正史の記録には以後の経過が記されていないが、出羽国雄勝平鹿2郡郡家の焼亡、由理柵の孤立、大室塞の奪取及び秋田城の一時放棄と関連づける見解もある[要ページ番号]。
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