伊治公呰麻呂の乱とは? わかりやすく解説

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伊治公呰麻呂の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:59 UTC 版)

日本の古代東北経営」の記事における「伊治公呰麻呂の乱」の解説

詳細は「宝亀の乱」を参照 宝亀11年1月頃、蝦夷の賊が北方より大崎平野侵入して百姓危害加え事件起こった宝亀11年2月2日780年3月12日)、陸奥国司船路取って微に遺れる賊」を掃討したいが北上川凍って船を通すことが出来ず今は「賊」の「来犯」が止まないので、まずその「寇道」を塞いで3月4月になって消え雨水満ちあふれた直ちに軍士3000人を発して賊地」に進み覚鱉城の造営申し出る(覚鱉城造営計画)。陸奥国は覚鱉城造営目的を単に賊の侵入路遮断としているが、対して光仁天皇胆沢の地を得るための軍事拠点とすべきことを主張して陸奥出羽両国にとって最大の「恩(めぐみ)」であると理解示して敕を発している。 宝亀11年3月按察使紀広純陸奥介大伴真綱牡鹿郡大領道嶋大楯らを伴って覚鱉城造営用務で俘軍を率いて伊治城入城した同年3月22日780年5月1日)に此治郡大領伊治公呰麻呂突如反乱起こして広純と大2人殺害した数日後賊徒反乱軍)は無人となった多賀城襲撃し府庫略奪火を放って焼き払った正史記録には以後経過記されていないが、出羽国雄勝平鹿2郡郡家焼亡由理柵の孤立大室塞の奪取及び秋田城一時放棄関連づける見解もある[要ページ番号]。

※この「伊治公呰麻呂の乱」の解説は、「日本の古代東北経営」の解説の一部です。
「伊治公呰麻呂の乱」を含む「日本の古代東北経営」の記事については、「日本の古代東北経営」の概要を参照ください。

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