伊作家当主から相州家継承
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「島津忠良」の記事における「伊作家当主から相州家継承」の解説
島津氏の分家・伊作家の出身(このため、「伊作忠良」と呼ばれる事もある)。父・善久が明応3年(1494年)に馬丁に撲殺され、祖父・久逸も明応9年(1500年)、薩州家の内紛に関与し加世田で戦死したため、母・常盤が一時的に伊作家当主となる。この間、伊作家は周辺の諸豪族の攻撃に晒されるが、田布施の相州家当主・島津運久に加勢を頼み、運久も承諾して都度兵を送り撃退していたと言う。 忠良は幼児の頃、桂庵禅師から『朱子新註四書』の学習を受け、ことに『論語』に通じ、賢徳の聞こえが高かった。また、禅を修め、神道の奥儀を究め、儒神仏の三教を融合して新たに一流を開いた。これが日学と称されるものである。相州家の運久は以前より未亡人となった常盤に惚れ込み求婚を申し出ていたが、忠良を養子とし伊作・相州両家の家督相続を条件に母・常盤は文亀元年(1501年)、運久と再婚した。永正3年(1506年)、忠良は元服し伊作家を継いだ。永正9年(1512年)、運久は阿多城を攻略し亀ヶ城より移り、かねてからの約束を守り相州家当主の座を忠良に譲った。忠良は伊作・亀丸城より田布施・亀ヶ城に入城。21歳で阿多・田布施・高橋・伊作を領す。領主となった忠良は伊作の亀丸城、田布施の亀ヶ城とも良くまとめ、禅の修行に精進し学門を修め、人道を守り領民には善政を施したのでその徳は領内外に高まった。
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