京城帝大グループ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 06:04 UTC 版)
朝鮮に在留していた日本人を治療していた経験を持ち、継続して今度は引揚者の治療にあたりたいと志願したのが、旧京城帝国大学医学部医局員グループで、外務省に働きかけて省の外郭団体である在外同胞援護会の「救療部」として活動を始めていた。引揚船に船医を派遣したが、搭乗者していた日本人の大多数は朝鮮北部からの引揚者で、特に婦女子の有様は凄惨であった。なかには性的被害に遭った者、なおかつ性病感染や妊娠させられた女性もおり、彼女らに対しなんら救済措置も用意されていない次第を博多引揚援護局に報告し、被害者患者のための病院の設立を具申した。提案は受け入れられ、在外同胞援護会と引揚援護局の協力により、1946年(昭和21年)3月25日に「二日市保養所」が開設されることになった。 病院の開設や人員確保の経緯は以上の通りだが、これとは別に、医師たちがなぜ違法な中絶手術を恒常的に行う道に踏み切れたのか、そのきっかけとなったというエピソードも紹介される:このグループの仲間の一員は、朝鮮での元教え子に遭遇するが、彼女は国民学校に赴任しており、凌辱されたために妊娠して腹が大きくなっているのが目立ってきた。両親に歎願で中絶手術を決行したが、失敗し、母子ともに死亡した。
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