五大湖とシカゴ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 03:37 UTC 版)
「チェサピーク・アンド・オハイオ鉄道」の記事における「五大湖とシカゴ」の解説
1900年から1920年まで、C&Oはウエストバージニア州南部とケンタッキー州東部で算出される瀝青炭を運ぶべく路線を建設し、これによって20世紀を生き抜いたC&Oの基本が形作られた。 1910年、C&Oはシカゴ・シンシナティ・アンド・ルイビル鉄道を買収した。この路線はシンシナティからハモンドまで、インディアナ州の南東から北西を対角線状に横切る路線で、買収の前10年間で建設されたものであった。この路線を得たことにより、C&Oは鉄道のハブたるシカゴへのルートを手に入れた。 同年、C&Oはウェストバージニア州のカナワ・アンド・ミシガン鉄道(K&M。チャールストン南東のゴーレイにある、ニュー川ほとりのK&MジャンクションでC&Oと接続し、そこから北西のオハイオ州との境にある、ポイント・プレザントまでの路線)およびホッキング・バレー鉄道(HV)を傘下に納め、コロンバスを通って五大湖へとつなぐルートを得た。 独占禁止法に抵触するためにC&OはK&Mの株式を放棄したが、HVの株の所有は認められた。同線は延長560km(350マイル)、コロンバスとエリー湖岸のトレド港とを直結するルートであり、コロンバス南東にあるホッキング炭田には無数の支線があったが、C&Oのメインラインとはつながっていなかったので石炭の一貫輸送ができずにいた。そこで、石炭をトレドに運び、五大湖の水運を使って出荷するために、C&Oはライバルであるノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道(N&W)と契約を結び、キノバ(ケノバとも。ハンティントン西部にある)からコロンバスまで列車を運行させてもらった。しかし、N&Wはこの契約に制限をかけ、決してC&Oが満足する結果にはならなかった。 C&Oはホッキング・バレーに直結する新たなルートの建設をはじめた。その路線は、ターミナル駅であるケンタッキー州ラッセルから数マイル離れた地点とコロンバスとを結ぶもので、1917年から1926年にかけて建設された。オハイオ川は、ケンタッキー州ライムビルとオハイオ州シオトビルの間に架けられたシオトビル橋で渡った。この橋は当時最大級の橋であり、技術の進化のモニュメント的なものとして、今日でもそのまま存在している。 コロンバスで、C&Oの線路と完全につながると、C&Oはより多くの鉱石や石炭を主として西部に送り出した。東側への出荷よりも西側への出荷のほうが多かった。1930年に、HVはC&Oに買収された。
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