二本立ての添え物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 01:23 UTC 版)
1929年10月からの大恐慌で映画界も直撃を受け、1930年の1週間当たりの平均観客動員数が1億1,000万人であったのが、1932~33年頃には1週平均6,000万人に激減した。これに対して映画会社が考えたのがそれまで無かった2本立て興行であった。サイレント時代から興行形態は様々な変遷を経ているが、興行の目玉である長編物(フィーチャー)は1本立てであり、これに短編や連続物(シリアル)などを加えて映画興行が成り立っていた。長編物はほぼ90分(1時間半)の上映であった。そこで観客を呼び戻す方策として料金はそのまま同じで長編物を二本立てで上映するシステムに変えることになった。そして、ハリウッドは年間で300本の映画を製作する必要が生じた。これに応じて撮影所は同じ長編でも二本立てでメインになる映画は長編90分にして、もう1本はそれよりも短い50~70分の時間で予算を抑え、当然スターは使わず、しかも限られた日数で製作することとした。そのため、上映する2本の映画に格差をつけて、もう1本が添え物のような形になったので、それが「B級映画」と呼ばれるようになった。これは必ずしも映画会社だけの発案ではなく、実は興行側の映画館からの要請もあった。当時映画館は景品を出したりして観客を喜ばせる方策を打ち出し、その一つとして二本立ての試みを一部始めていた。それに対応して映画会社も量産体制に入ったのである。そしてフォックス社が「A」撮影所と「B」撮影所に分かれたように、当時の他のメジャー会社(パラマウント、ワーナー、MGM、ユナイト、ユニヴァーサル、コロンビア、RKO)なども例えば自社でAユニットとBユニットに分けてB級映画の製作に乗り出し、本数が足りないところはB級映画を専門に製作するマイナー会社であるリパブリック、モノグラム、グランド・ナショナル、PRCなどが製作していった。
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