事実上のロシア宰相
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 14:37 UTC 版)
「アダム・イエジィ・チャルトリスキ」の記事における「事実上のロシア宰相」の解説
1805年チャルトリスキは、首席大臣(事実上の大臣委員会議長、帝国宰相)としてアレクサンドル1世に随行し、ベルリンとオルミュッツ(現在のチェコ領オロモウツ)の両会議に参加した。チャルトリスキは、プロイセンに対して不信感を持っていたため、ベルリンでの交渉では細心の注意を払った。1807年2月チャルトリスキはアレクサンドル1世の支持を失い、外相職を退き、アンドレイ・ブドベルグと交代した。 しかし、外相を辞任した後も国家評議会には留まった。1810年にはチャルトリスキに対して、アレクサンドル1世が1805年に取った方針が誤りだったとざっくばらんに認めるなど、非公式に信頼を維持した。1810年にチャルトリスキはペテルブルクを離れた。以後、チャルトリスキはペテルブルクに戻ることは無かった。この時期には、彼とアレクサンドル1世の関係は決して良好なものとは言えなかったが、それでもチャルトリスキとアレクサンドル1世は1813年2月20日に露普同盟調印を前に、カリシュ(ヴィエルコポルスカ県、大ポーランドの意味)で再会した。1814年ウィーン会議が開催されると、チャルトリスキはパリに滞在し、ウィーン会議に臨席するアレクサンドル1世の元に情報を提供した。
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