中英交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 15:08 UTC 版)
1970年代に入ると、租借地新界の租借期限が次第に近づいてくるため、イギリス政府は新界租借の延長を中華人民共和国に求めたが、中華人民共和国は応じなかった。この頃には租借期限問題にどのような結末を付けるかまだ誰にも予測できなかった。 その後1980年代に入ると中華人民共和国の改革開放政策が進展し、香港の製造業は国境を越えて中華人民共和国側に進出、香港は金融、商業、観光都市となっていった。 マーガレット・サッチャー首相はイギリスが引き続き香港を植民地支配下におけるよう求めていたが、中華人民共和国は「港人治港」を要求してこれに応じず、鄧小平はサッチャー首相に対し「イギリスがどうしても応じない場合は、武力行使や給水の停止などの実力行使もあり得る」と示唆した。 サッチャーは予想外の鄧小平の強硬姿勢にショックを受け、会談を終えて人民大会堂を出る時、足元がふらついたという。 1984年12月19日、中英双方が署名した中英共同声明が発表され、イギリスは1997年7月1日に香港の主権を中華人民共和国に移譲し、香港は中華人民共和国の一特別行政区となることが明らかにされた。 この中で中華人民共和国政府は鄧小平が提示した「一国両制」政策をもとに社会主義政策を将来50年(2047年まで)にわたって香港で実施しないことを約束した。 この発表は共産主義の一党独裁政府である中華人民共和国の支配を受けることを喜ばない香港住民を不安に陥れ、イギリス連邦内のカナダやオーストラリアへの移民ブームが起こった。 その後1989年に北京で六四天安門事件が発生すると、香港では民主派支持の大規模デモが行われ、専制的で強権的、かつ国民に対する武力行使も辞さない中華人民共和国の本質が明確になったとして再び移民ブームが巻き起こった。 大部分の香港移民はイギリス連邦の構成国であるカナダのトロントやバンクーバー、シドニーやシンガポールに向かった。
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