中学校・高等学校へ進学
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1895年(明治28年)、中学入学の年が林子平の百回忌にあたり、校長・大槻文彦が子平の伝記を講義した。作造は、その中から面白いと思ったことを書き留め、雑誌『青年文』(1895年2月号)に「林子平の逸事」という題で投稿した。子平の探究心と行動力、周囲に惑わされない思慮深さなどを紹介している。また7月、学内誌『如蘭会雑誌』第一号(1895年7月)の「松風録」に林子平についての文章を書いている。中学校では、回覧雑誌発行に熱中する様になり、二年生の時『常磐文学』を始めた。会員増加や対抗誌が出来るなど、学内でも回覧雑誌が流行した。吉野は、回覧雑誌編集を通じて友人をつくった。その中の一人に小学校からの友人・三浦吉兵衛がいた。 1897年(明治30年)9月、第二高等学校法科に無試験合格する。尚絅女学校校長アニー・S・ブゼルの聖書研究会に参加。1898年(明治31年)7月3日、内ヶ崎作三郎・島地雷夢らと三人一緒に浸礼を受ける。キリストネーム「ピリポ」。二高で事件となった。 1900年(明治33年)5月14日、20歳のたまのとの婚姻届出す。7月、二高を卒業。9月、東京帝国大学法科大学に入学。本郷教会(牧師海老名弾正)で『新人』の編集に参加協力。
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