七支刀(ななつさやのたち)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 15:38 UTC 版)
「大神 (ゲーム)」の記事における「七支刀(ななつさやのたち)」の解説
都で売られている七叉に分かれた剣。「画点」の筆業を使うことが可能で、攻撃力も都牟刈大刀よりも高い。
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七支刀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 14:15 UTC 版)
詳細は「七支刀」を参照 神功52(252または372)年9月10日、百済王は、百済と倭国の同盟(済倭同盟)を記念して神功皇后へ七子鏡と七支刀を贈った。 なお、七支刀に彫られた「泰■四年」を太和4年とする説がある。この場合、東晋の太和4年とされる。但し、この場合には泰の文字と太の文字が異なるために疑問視する声もある。また七支刀に彫られた「泰■四年」を西晋の泰始4年(268年)もしくは宋の泰始4年(468年)だという説もあり、こちらは泰の文字が合致するのでこちらを主張する学者も存在する。 山尾幸久は、裏面では百済王が東晋皇帝を奉じていることから、369年に東晋の朝廷工房で造られた原七支刀があり、百済が372年正月に東晋に朝貢して、同年6月には東晋から百済王に原七支刀が下賜されると、百済では同年にこれを模造して倭王に贈ったと解釈している。また、当時の東晋では、道教が流行しており、七支刀の形態と、その百兵を避けることができるとする呪術力の思想があったとする。浜田耕策は百済王が原七支刀を複製して、刀を倭王に贈るという外交は、当時、百済が高句麗と軍事対立にあったため、まず東晋と冊封関係を結び、次いで倭国と友好関係を構築するためだったとしている。
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