一方杉と南方熊楠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 18:46 UTC 版)
この王子を特徴付けるものにはもうひとつ、社地を囲む鎮守の森の巨木群があり、集落の名をとって野中の一方杉(のなかのいっぽうすぎ)と呼ばれる。これら巨木のなかには樹齢800年以上ともいわれ、直径が2~3mを越えるものも9本を数える。日照や地形の関係のため、どの木もみな一様に南東方向の那智山の方角にのみ枝を伸ばしていることから一方杉の名がついている。 この一方杉の森が今日に残るのは、多能の異才として知られた南方熊楠の働きによるところが大きい。熊楠は欧米遊学の後、田辺に居を構えると、1度の上京を除いて熊野を出ることなく生涯をすごした。熊楠にとって、熊野の山野は、同じ和歌山でも和歌山市などと異なる辺境の地であり、半熱帯と温帯の交錯する貴重な自然の残された土地であった。熊楠はこの地の自然に大きな関心を寄せ、粘菌をはじめとする植物の採集など、博物学上の大きな成果を残すと同時に、民俗にも目を向けていた。 1906年(明治39年)に神社合祀令が発されると、各地で小社の合祀廃絶が相次いだが、それは当時近野村においても例外ではなかった。加えて、熊楠が報告するところによれば、地元の有力者や一部の官吏が合祀令を悪用し、私利のために神社の土地や神社林の木々を売り払おうとする動きが見られた。熊楠はこの動きに抗議し、当時の東京帝国大学農学部教授であった白井光太郎らとともに、神社林の伐採を阻止すべく運動を行った。 1911年(明治44年)12月、継桜王子の神社林にも伐採がついに及んだが、かろうじて中心部の杉だけは救われたのである。しかし、これは幸運な例に属する。熊楠の奮闘も熊野全域に及ぶ神社合祀の流れを押しとどめるには至らず、南方熊楠の説得により伐採を免れた神社林も、この野中の一方杉の他にもいくつかあることにはあるが、ほとんどの神社は廃れて、結局は神社林を伐採されて姿を消した。
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