ヴウォストヴィチ事件と弟達との2度目の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 02:43 UTC 版)
「ヴワディスワフ2世ヴィグナニェツ」の記事における「ヴウォストヴィチ事件と弟達との2度目の戦い」の解説
ヴワディスワフ2世の統治期、最も権勢を誇っていたのは宮中伯(ヴォイェヴォダ)ピョトル・ヴウォストヴィチだった。ヴウォストヴィチはボレスワフ3世の忠臣として国内に対する大きな政治的影響力を獲得し、宮廷の要職を押さえていた。宮中伯である彼は、年少の諸公達の領地を含むポーランド全域の地方機関の官職を任命する権利を持っており、このことは国政の命運を決定づける立場の人物にしていた。ヴウォストヴィチの権勢拡大はヴワディスワフ2世との関係を悪化させていき、特に公妃アグネスは彼を裏切り者として嫌っていた。 1144年7月27日、継母サロメアが死去した。父の遺言に従い、彼女の領するウェンチツァは年少の諸公の同意の下、長子領に併合された。ところがヴウォストヴィチは、ウェンチツァを長子領から奪い取るクーデターを計画した(最年少の公ヘンリクの便宜を図ろうとしたからとされる)。この事件が起きると、ヴワディスワフ2世は同盟者キエフ・ルーシに援護を求めた。ヴワディスワフ2世は食糧調達が済まないうちに自分の軍隊をボレスワフ4世とミェシュコ3世の同盟軍と戦わせた。ここでヴワディスワフ2世は予想外の苦戦を強いられたが、それも同盟者であるキエフ軍が到着するまでのことで、最終的な勝利を得たのはヴワディスワフ2世の軍隊だった。すぐに和平が結ばれ、ウェンチツァはヴワディスワフ2世の領する長子領に組み入れられた。但し、協力してくれたキエフ・ルーシにポーランド領内のヴィジニェの城を譲渡する代償も払っている。 一方、ヴワディスワフ2世とピョトル・ヴウォストヴィチとの敵対関係は悪化していくばかりだった。宮中伯の味方に就いた人々は、内戦が起きると一斉に大公に敵対した。こうした状況はヴワディスワフ2世の理想とする専制政治とは全く違っており、この事件の後大公はさらに弟達の完全な排除を望むようになった。 1145年までに2人の関係は修復したかに見えた。大公はヴウォストヴィチの息子の結婚式に出席し、その息子を宮中伯に任じたからである。しかし翌1146年、ヴワディスワフ2世は自らの利益のため、ヴウォストヴィチを失脚させようと図り、自分に仕えるドベクという騎士にヴウォストヴィチを捕えるよう命じた。ドベクはオウビノにあるヴウォストヴィチの宮廷に現れ、自分の手下達を使って宮中伯を逮捕した。アグネス公妃はヴウォストヴィチを殺すよう夫に訴えたが、ヴワディスワフ2世は代わりに宮中伯の目を潰し、口をきけなくしたうえで国外に追放した。 ヴウォストヴィチは貴族達の間できわめて人望があり、友人も多かったため、この事件は多くの有力者を年少の諸公達と同盟させることになった。盲目のヴヴォストヴィチはこれまでヴワディスワフを支持してきたルーシを訪れ、ルーシ人を説得してヴワディスワフ2世との同盟を破棄させた。
※この「ヴウォストヴィチ事件と弟達との2度目の戦い」の解説は、「ヴワディスワフ2世ヴィグナニェツ」の解説の一部です。
「ヴウォストヴィチ事件と弟達との2度目の戦い」を含む「ヴワディスワフ2世ヴィグナニェツ」の記事については、「ヴワディスワフ2世ヴィグナニェツ」の概要を参照ください。
- ヴウォストヴィチ事件と弟達との2度目の戦いのページへのリンク