ヴァン・ドンゲンとピカソ
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オランダ人画家キース・ヴァン・ドンゲン (1877-1968) が妻とパリに転居したのは1899年10月頃である。最初はモンマルトルのオルドネ通り、次にジラルドン通り5番地から袋小路に入った10番地の屋根裏部屋を借りていた。モーリス・ド・ヴラマンク (1876-1958)、アンリ・マティス (1869-1954) に出会ってフォーヴィスム(野獣派)に傾倒した彼は、1905年、サロン・ドートンヌ(フランス語版)に参加。同年12月頃、前年から「洗濯船」に住んでいたピカソに誘われてここに転居した。 ピカソとフェルナンド、ヴァン・ドンゲンと妻、娘のドリーは同じ階に住み、頻繁に行き来していた。当時、モンマルトルでは「メドラノ・サーカス」が人気を博し、ピカソが『玉乗りの曲芸師』、『サルタンバンクの家族』などを描いたのも実際にサーカスに通っていたからである。「メドラノ・サーカス」は経営難に陥った「フェルナンド・サーカス」の後身としてジェローム・メドラノが1897年に設立したが、フェルナンド・サーカスはジョルジュ・スーラ (1859-1891) の代表作『サーカス』(1891) をはじめとし、トゥールーズ=ロートレックの『フェルナンド・サーカスにて』(1888)、オーギュスト・ルノワールの『フェルナンド・サーカスの曲芸師たち(ふたりのサーカスの少女)』(1879) などの名画の題材になったことで知られる。ヴァン・ドンゲンもピカソとともにサーカスに通い、『メリーゴーラウンド(回転木豚)』(1905)、『シナグラーニ(ダンサー)』(1906) などサーカスの絵を描いた。また、フェルナンドを描いた絵も多く、1907年には代表作『フェルナンド・オリヴィエ』を制作した。ピカソとヴァン・ドンゲンは深い友情で結ばれながら、同時にまた、画家としてライバルであった。ピカソが1907年に『アビニヨンの娘たち』を描いてキュビスムに向かったのに対して、翌1908年、既に「洗濯船」を去って近くのラマルク通り35番地に住んでいたヴァン・ドンゲンがアンデパンダン展に出展した『タバランの女レスラーたち』は、『アビニヨンの娘たち』を連想させる構図でありながら、レスラーらしく肉付きの良い「立体的な」女たちを描いている。 ヴァン・ドンゲンが「洗濯船」に滞在したのは1年ほどの短期間だったが、晩年、74歳でモナコに瀟洒なヴィラを購入したとき、これを「洗濯船」と命名し、91歳でこのモナコの「洗濯船」で死去した。
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