ヴァレリアン・バクラゼとは? わかりやすく解説

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ヴァレリアン・バクラゼ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/29 07:49 UTC 版)

ヴァレリアン・ミナエヴィチ・バクラゼ
Валериан Минаевич Бакрадзе
ვალერიან მინას ძე ბაქრაძე
生年月日 (1901-09-18) 1901年9月18日
出生地 ロシア帝国クタイス県ロシア語版ラチャ郡セヴァ
没年月日 (1971-04-03) 1971年4月3日(69歳没)
死没地 ソビエト連邦
出身校 全連邦共産党(ボ)中央委員会附属マルクス・レーニン主義コース、党史コース
所属政党 ボリシェヴィキ→)
ソビエト連邦共産党
称号 レーニン勲章(3回)[1]
祖国戦争勲章1等[1]
赤旗勲章[1]

グルジア共産党英語版)中央委員会
第二書記
在任期間 1934年12月30日 - 1937年7月

在任期間 1937年7月 - 1946年12月
1953年4月15日 - 9月21日
中央執行委員会・
最高会議幹部会議長
フィリップ・マハラゼ
ゲオルギー・ストゥルア
ウラジーミル・ツホヴレバシュヴィリ[2]

閣僚会議副議長
在任期間 1946年12月 - 1952年4月6日

食品産業大臣
在任期間 1947年 - 1954年4月6日

チフリス市ソビエト執行委員会議長
在任期間 1934年6月4日 - 1935年1月5日
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ヴァレリアン・ミナエヴィチ(ミナス・ゼ)・バクラゼロシア語: Валериан Минаевич Бакрадзеグルジア語: ვალერიან მინას ძე ბაქრაძე1901年9月18日 - 1971年4月3日)は、グルジア・ソビエト社会主義共和国の政治家。

生涯

1901年9月18日、ロシア帝国クタイス県ロシア語版セヴァ (ka) で[3]チアトゥラのマンガン鉱山で働く父と、貧しい農婦の母との間に生まれた[4]。8歳から3年間だけ村の学校に通い、11歳から自活して働き始めた[4]1911年にはチフリス楽器工場で[3]、翌1912年から1921年までチフリスで働き、同年2月の赤軍のグルジア侵攻英語版に際しては赤軍の側に付いてカヘティヘヴスレティ英語版で戦った[4]。同年に赤軍第11軍騎兵旅団のボリシェヴィキ組織に加盟し、1923年2月にはグルジア共産党英語版中央委員会の指令に基づいてドゥシェティグルジア語版郡 (ru) で反革命勢力の掃討を主導[4]。翌1924年の反革命八月蜂起英語版の鎮圧も指導した[4]

同年末に一時モスクワへ赴き、グルジア社会主義ソビエト共和国に帰還した後もバザレティグルジア語版とドゥシェティの党組織で活動を続けた[4]。グルジア共産党中央委煽動・大衆宣伝部部長にもなり[1]、1924年には党ムフラニ地区委書記[3]1926年にはドゥシェティ委責任書記、1928年から翌1929年8月までは中央委農村部教官、1930年までカヘティ地区委書記を務めている[4]。地区の解体後は1930年から翌1931年まで再度モスクワで全連邦共産党中央委附属マルクス・レーニン主義コース[3]、次いで党史コースに学んだ[4]

1934年6月4日から翌1935年1月5日まではチフリス市ソビエト執行委議長、1934年12月30日から1937年7月までグルジア共産党中央委第二書記、1942年から翌1943年までザカフカース戦線英語版第46軍事ソビエトロシア語版メンバー[3]、1937年7月から1946年12月までグルジア共和国人民委員会議および閣僚会議議長、同月から1952年4月6日まで副議長、1947年から1954年4月6日まで食品産業相、同日から翌1953年4月15日まで閣僚会議第一副議長、同日から9月21日まで再度議長を歴任[1]。その他にも連邦共産党ザカフカース地方委メンバー、第1期から第3期までの連邦最高会議代議員、連邦共産党第18回英語版第19回大会英語版出席者、第1期から第3期までのグルジア共和国最高会議グルジア語版代議員、全グルジア中央執行委幹部会メンバー[3]、軽工業・食品産業相などを務め、1934年12月30日から1953年9月20日まではグルジア共産党中央委局員、1939年3月21日から1954年3月2日までは連邦共産党中央委員候補でもあった[1]

1971年4月3日、69歳で死去した[3]

脚注

  1. ^ a b c d e f Бакрадзе Валериан Минаевич”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2018年4月2日閲覧。
  2. ^ Высшие органы государственной власти ССР Грузия - Грузинской ССР - Республики Грузия”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2018年4月2日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g ვალერიან ბაქრაძე”. საქართველოს პარლამენტის ეროვნული ბიბლიოთეკა英語版. 2018年4月2日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h ვალერიან მინას ძე ბაქრაძე” (DOC). საქართველოს პარლამენტი. 2018年4月2日閲覧。
党職
先代
ピョートル・アグニアシュヴィリ
グルジア共産党(ボ)中央委員会第二書記
1934年12月30日 - 1937年7月
次代
ヨシフ・コチュラマザシュヴィリ
公職
先代
ゲルマン・ムガロブリシュヴィリロシア語版
人民委員会議議長
1946年3月15日から閣僚会議議長
1937年7月 - 1946年12月
次代
ザハリー・チュフビアニシュヴィリロシア語版
先代
ザハリー・ケツホヴェリロシア語版
閣僚会議議長
1953年4月15日 - 9月21日
次代
ギヴィ・ジャヴァヒシュヴィリ
先代
バグラト・マチャイゼ
チフリス市ソビエト執行委員会議長
1934年6月4日 - 1935年1月5日
次代
シモン・ジュゲリ



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