ワラキアとの戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 21:13 UTC 版)
1459年にワラキアに課した貢納金を増額した際、ワラキア公ヴラド・ツェペシュは貢納金の支払いを拒否し、メフメトが詰問に向かわせた使者たちはヴラドによって処刑された。1461年から1462年にかけての冬、オスマンの守備隊はテレオルマンでワラキア軍の攻撃を受けて敗北する。1462年にメフメトはワラキアに親征するが、ヴラドはゲリラ戦術を展開して抗戦した。6月16日、メフメトの宿営はワラキア軍の夜襲によって大きな損害を受け(The Night Attack of Târgovişte)、6月中にメフメトはワラキアから撤退した。同年夏、メフメトはヴラドの実弟であるラドゥ3世を指揮官とする遠征軍を新たにワラキアに派遣する。ワラキア国内の貴族の離反とハンガリーの妨害によってヴラドは失脚し、トランシルヴァニアに亡命したが、ハンガリー国王マーチャーシュ1世に逮捕されてブダに幽閉された。 1462年にオスマン軍はヴェネツィア領のレスボス島を占領する。 ボスニア王ステファン・トマシェヴィッチはローマ教皇の使節に激励され、セルビアの支配権を要求し、オスマンへの貢納を拒否した。メフメトはボスニアに親征し、ステファンを首都のヤイツェから放逐し、クリウクスに追い詰める。1463年に降伏したボスニアのステファン・トマシェヴィッチを処刑し、一部の地域を除くボスニアを併合した。しかし、ヤイツェはマーチャーシュの手に落ち、占領には至らなかった。 1464年8月、反オスマン十字軍を計画していた教皇ピウス2世が病没し、ヨーロッパ諸国が連合してのオスマン攻撃は中止される。 1468年に長きにわたってオスマン帝国のアルバニア征服を阻止したスカンデルベグが没する。スカンデルベグの死を知ったメフメトは歓喜し、アジアとヨーロッパ両方の征服が達成されることを確信する。 1470年、オスマン艦隊はヴェネツィアの支配下にあったネグロポンテと近隣の島々を制圧する。ヴェネツィアの要所の1つであるネグロポンテの陥落はイタリアに恐怖を与え、ヴェネツィア出身の教皇パウルス2世はアヴィニョンへの避難さえ計画した。
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