ワラキアとモルダビアの統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/18 13:33 UTC 版)
「パーヴェル・キセリョフ」の記事における「ワラキアとモルダビアの統治」の解説
1828年、露土戦争でロシア軍が占領したワラキア、モルダビア(モルダヴィア)両地方の統治を命じられた。キセリョフは1834年にを解かれるまで事実上、ドナウ公国w:Danubian Principalitiesの支配者として君臨した。なお、キセリョフの後は、オスマン帝国のマフムト2世によってワラキア、モルダビア両公国の公が封じられている。 キセリョフの統治下で両公国は、最初の憲法にあたるレグラメンタル・オルガニック(Regulamentul Organic、国家組織法)が施行された(1831年ワラキア、1832年モルダビア)。同法は1859年のルーマニア王国成立まで1848年のワラキア革命による一時的な中断を挟んで存続した。同法は様々な欠点にもかかわらず経済社会的な影響を後世まで及ぼした。 キセリョフはまた、ブカレストの道路建設にも力を入れ、市民から「キセリョフ通り」w:Şoseaua Kiseleffの名で呼ばれ、「勝利通り」w:Calea Victorieiの北に続き、博物館や美術館、公園などが多くある。
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