ローズクランズ軍時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/23 07:06 UTC 版)
「ウィリアム・ヘイズン」の記事における「ローズクランズ軍時代」の解説
ローズクランズ軍は、1863年12月、テネシー州マーフリーズボロ近郊でブラクストン・ブラッグ大将率いる南軍と対峙した。ストーンズリバーの戦いと呼ばれるこの戦闘において、北軍右翼はブラッグ軍の攻勢を支えきれずに後退し、ストーンズリバーの川岸に追い込まれた。このためにV字型になった北軍の戦線の突端にいたのが、ヘイズンとチャールズ・クラフト准将の旅団である。南軍はヘイズンらの旅団に集中攻撃を加えたが、北軍が兵力・火力による援護を集中させたこともあって、結局戦線を突破することはできなかった。この激戦区は、現地では「ラウンド・フォレスト」と呼ばれていたが、この戦闘に前後して俗に「地獄の半エーカー」とも呼ばれるようになった。ヘイズンの旅団は409名の死傷者(損害率29%超)を出し、内45名が死亡、ヘイズン自身もこの戦闘で肩を負傷した。戦闘後半年もしないうちに建立されたヘイズン旅団慰霊碑は、南北戦争時代のモニュメントとしては最古のものであると考えられている。1863年4月、ヘイズンは准将に昇進した。 1863年6月に始まったタラホーマ方面作戦にもカンバーランド軍に属して参加。第21軍団に所属して戦った1863年9月のチカモーガの戦いは北軍の大敗に終わり、カンバーランド軍はチャタヌーガに撤退、ブラクストン・ブラッグ率いる南軍はこれを包囲し、兵糧攻めに持ち込んだ。 北軍の援軍として急派されたユリシーズ・グラント少将は、打開策としてテネシー川の航行権を奪取してチャタヌーガへの補給線「クラッカーライン」を確保することを期した。この作戦において、渡船場ブランズフェリーを奇襲によって確保するという、作戦全体の成否の鍵を握る任務を割り当てられたヘイズンは、1863年10月27日、夜陰と霧に紛れ、約1,000名の部隊を率いて川を下り、ブラウンズフェリーを奪取することに成功した。この作戦によって補給体勢を整えた北軍は、続く第三次チャタヌーガの戦いで南軍の包囲を破り、チャタヌーガの支配権を確立した。ヘイズンもまたチャタヌーガの戦いに第4軍団所属の1個旅団を率いて参加したが、このとき、ミショナリー・リッジの頂上に最初に到達した栄誉をめぐってフィリップ・シェリダン少将と対立を生じることになった。 ヘイズンは、チカモーガの勲功によって正規軍名誉少佐に昇進、チャタヌーガの勲功で名誉中佐に昇進した。
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