ロンドン以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/04 01:16 UTC 版)
「フランシナ・ブランカース=クン」の記事における「ロンドン以降」の解説
世界中に知れ渡ったクンのもとに、たくさんの保証人依頼やスポンサーになってほしいというオファーが舞い込んだ。アマチュアリズムに則り全て断った。しかしながら、1949年には女子陸上普及を勧めるためにオーストラリアとアメリカへ飛んだ。 1950年、クンの選手生命に危機が訪れるエピソードが起こった。前年にオランダの新星フォケ・ディレマ(Foekje Dillema)がクンの記録を破ったからである。1950年には200mの国内レコードを更新、マスコミは『新しいファニー』と呼んだ。 同年にブリュッセルで行われた欧州選手権で、オリンピックでのパフォーマンスを再現した。100m、200m、80mハードルの3種目で各々で0秒4以上の大差をつけて快勝したが、4×100mリレーでイギリスの4着に終わった。 34歳になって、ヘルシンキでおこなわれたオリンピックで三度目の出場を果たした。動きは良好であったが、臀部の贅肉が邪魔をした。100mは準決勝まで進出したが、80mハードル準決勝で2つ目の障害をひっくり返し競走を中止したため失格に終わった。3年後の1955年8月7日、砲丸投で58回目の国内タイトルを獲得し現役生活に別れを告げた。
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