ロンゲスト・ケーブ (1954–1972)
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「マンモス・ケーブ国立公園」の記事における「ロンゲスト・ケーブ (1954–1972)」の解説
1954年までに、マンモスケイブ国定公園として指定された境界の内部は、二つの例外的な私有地を除いてすべて国定公園の保有地となった。これらの私有地のうちの一つである旧リー・コリンズ農場は、ケンタッキー州ホース・ケーブのハリー・トーマスに売却された。 彼の孫であるウィリアム「ビル」オースティンは、マンモスケイブ国立公園との競争を行うためコーリンズのクリスタルケイブを見世物用の洞窟として公開した。そのためコーリンズクリスタルケイブへの道の保守が必要であった。クリスタルケイブ所有権の没収や購入は時間の問題だった。 1954年2月、オースティンの招きでアメリカ洞窟学会の援助の下、2週間の探検隊が組織された。この探検隊はC-3、コリンズのクリスタル・ケーブ探検隊として後に知られるようになった。 C-3探検隊は、当初ロバート・ハルミによって出版されたフォトエッセイ(スポーツ・イラストレイテッドまたはLookのいずれか)、後には探検隊のうちの2人の体験談を出版したもの、つまりジョー・ローレンスJr.(当時のアメリカ洞窟学会の会長)とロジャー・W.ブラッカーによるThe Caves Beyond: The Story of the Collins Crystal Cave Expedition によって、公の関心をひいていた。探検隊は、クリスタル・ケーブの通路がマンモス・ケーブまで延びていること、少なくともクリスタル・ケーブの土地の境界を越えていることを明確に示した。しかし、この情報は探検家たちの間で秘密にされていた。この事実が知られると、国立公園局によって探索が禁じられてしまうことを恐れたからである。 1955年、調査によりクリスタル・ケーブが未知の洞窟とつながっていることがわかった。これが、フリント・リッジ・システムとの最初の接続点である。 C-3探検隊の参加者のうちの何人かは、C-3探検隊が結論を出した後も探索を続けることを望み、オースティン、ジム・ダイヤー、ジョン・J.レーベルガーおよびE.ロバート・ポールの指示の下フリント・リッジ調査隊を組織した。この組織は、1957年に洞窟研究財団として設立された。組織は、独創的な学究的、科学的研究を支援することを通じて、洞窟探検家たちの活動を合法化することに努めた。この期間にマンモス・ケーブを研究した有名な科学者として、パティ・ジョー・ワトソンがいる(先史時代の項を参照)。 1960年、調査によりコロッサル・ケーブはソルト・ケーブとつながっていることがわかり、1961年にはコロッサル・ケーブ-ソルト・ケーブはクリスタル・ケーブ-未知の洞窟ともつながっており、フリント・リッジの大部分の下で一つの洞窟系を形成していることがわかった。 1961年3月に、クリスタルケイブの所有権は285,000ドルでアメリカ合衆国国立公園局に売却された。同時に、唯一の私有地であったグレイト・オニキス・ケーブの土地は365,000ドルで売却された。洞窟研究財団は、国立公園局と覚書を交わし探索を続けることへの許可を受けた。
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