ルムンバの殺害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 07:04 UTC 版)
ルムンバは軟禁から脱出して、自分を支持する勢力を結集出来ると信じて東のスタンリーヴィルに向けて逃亡した。モブツに忠実な部隊によって追跡されたルムンバは1960年12月1日にポルフランキーで逮捕され、手を縄で縛り上げられた状態でレオポルドヴィルに連れ戻された。国連はカサブブに法の適正手続きに基づいてルムンバを裁くように求めたが、ソ連はルムンバが逮捕された責任は国連にあるとして彼の釈放を要求した。12月7日に国連がルムンバの即時解放と国家の長へのルムンバの復職、そしてモブツの軍の武装解除をカサブブ政府に要求すべきとするソ連の提案について議論するために、国連安全保障理事会の会合が開催された。ルムンバを支持するこの決議案は12月14日に採決に付されたが、2-8で否決された。監禁状態が続くルムンバは拷問を受けてティスヴィルに輸送された。その後、ルムンバの処遇に悩んだモブツは彼の身柄をカタンガに送り込み、チョンベに忠実な部隊に引き取らせた。 パトリス・ルムンバは1961年1月17日にエリザベートヴィル近郊でカタンガ憲兵隊によって処刑された。4人のベルギーの将校の他にチョンベとカタンガ国政府の他の2人の閣僚が現場に立ち会い、政府当局の指揮下で処刑は実行された。拷問を受けたルムンバと彼を支持する新政府の2人の閣僚、モーリス・ムポロとジョセフ・オキトは木に背を向けて一列に並べられ、一人ずつ一発で射殺された。後年に明らかになったベルギーの報告書によると、殺害はおそらく21時40分から21時43分頃の間に実行された。 ルムンバ殺害のニュースは2月13日に公表され、この非人道的行為に対する怒りが世界各地で巻き起こった。ユーゴスラビアのベオグラード市内にあるベルギーの大使館は抗議者によって襲撃され、ロンドンやニューヨークでも暴力的抗議活動が発生した。
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