リストとの対決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 08:49 UTC 版)
「ジギスモント・タールベルク」の記事における「リストとの対決」の解説
1837年になると、リストは雑誌記事でタールベルクの作品をけなしている。タールベルクがパリに戻ると、2人の間にライバル意識(リストがわずか2ヶ月ほど年長)が燃え上がった。同年2月にタールベルクは初めてリストの演奏を聞いて呆然となった。同年5月、彼はロンドンで演奏会を開いた。このころ作曲した 《ロッシーニの「エジプトのモーゼ」による幻想曲 Op.33》 は1839年に出版され、19世紀を通して演奏会でしばしば取り上げられる有名作品となっている。後にシューマンの妻となるクララ・ヴィークもこの作品を研究したという。ロンドン滞在を終えてイギリス各地でツアー・コンサートを開いたが病気になり、すぐにウィーンに戻った。 1838年春、彼がパリでコンサートを開いた時、音楽雑誌は「もっとも有名な作曲家」として取り上げた。同年4月、ウィーンで彼はコンサートを終えたばかりのリストを食事に招き、モーリッツ・フォン・ディートリヒシュタイン伯(フランツ・ヨーゼフの弟か)とともに会食した。伯爵は「カストルとポルックスの2人と一緒だ」と喜んだ。翌日、2人はメッテルニヒの客人として再び同席している。リストのウィーン滞在中、タールベルクは全く演奏しなかったという。 1843年、イタリアのオペラ歌手ルイージ・ラブラーケ(Luigi Lablache)の娘と結婚した。
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