ラフバのアミール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 21:03 UTC 版)
「サーリフ・ブン・ミルダース」の記事における「ラフバのアミール」の解説
サーリフは1008年にユーフラテス川沿いの要塞の町であるラフバ(英語版)をめぐる勢力争いの中で初めて史料に登場する。ラフバはシリアとイラクの境界に位置する戦略上の要衝であり、現地勢力や地域内の大国によって頻繁に支配権が争われていた。1008年に地元のラフバ出身のイブン・ミフカーンがファーティマ朝の総督を追放し、自らの支配を維持するためにサーリフに軍事的支援を求めた。サーリフは砂漠にある自身の部族の野営地に居を定めてそこに留まり続けたが、サーリフがイブン・ミフカーンを保護することと引き換えに何を得たのかはわかっていない。その後すぐにサーリフとイブン・ミフカーンの間で対立が起き、サーリフはラフバを包囲した。 この対立は、イブン・ミフカーンの娘とサーリフの結婚と、ラフバとともに統治していたと考えられているアーナ(英語版)へイブン・ミフカーンが移り住むことで合意に達した後に終息へ向かった。その後、アーナの住民がイブン・ミフカーンに対して反乱を起こした際に、サーリフは義父であるイブン・ミフカーンによる支配を主張して反乱に介入した。しかし、反乱が進行している最中にイブン・ミフカーンは暗殺された。同時代の年代記作者たちはサーリフがイブン・ミフカーンの殺害を指示したのではないかと推測している。そしてサーリフはラフバを占領するために進軍し、ラフバからファーティマ朝のカリフのハーキム(在位:996年 - 1021年)への忠誠を宣言した。ザッカールは、この出来事は「サーリフの経歴における最初のステップであり、サーリフの野心はおそらくここから発展していった」と記している。ラフバの占領は、ほぼ間違いなくキラーブ族の間におけるサーリフの評判を高めた。
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