ラグサ共和国の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 03:20 UTC 版)
「ダルマチア王国」の記事における「ラグサ共和国の終焉」の解説
プレスブルクの和約で、フランスはダルマチアとコトル湾の全権を獲得した。そして、その間に位置していたラグサ共和国(ドゥブロヴニク)は、ダルマチアとコトル湾の間の陸上交通の障壁となっていた。ナポレオン軍と弱体化したオスマン帝国がに挟まれることとなった共和国は、もはや安全を保てず、1806年5月27日、モンテネグロとロシア海軍によって危険にさらされたラグサ共和国は、フランス軍に抵抗することなく降伏した。すなわち、ジャック・アレクサン将軍の指揮下にある約1,200人の兵士からなるフランス戦隊が、偽りのふりをして街に入ったのである。フランス軍がドゥブロヴニクに入ってから、後背地のセルビア人の支援を受けたモンテネグロ=ロシア連合軍によるオスマン帝国での軍事作戦が始まった。結果1806年10月初め、オーギュスト・マルモン将軍の手助けによって、敵対したロシア軍は共和国領から追放され、その後まもなくフランスがラグサ共和国政府を引き継いだ。多数のフランス軍の駐屯はドゥブロヴニクを財政的に疲弊させた。ラグサ海軍は地中海の港で破壊または喪失され、後背地との高利潤だった貿易も中断された。1808年1月31日、マルモン将軍はナポレオンの承認を得てドゥブロヴニクの議会を解散し、ラグサ共和国を廃止した。共和国の廃止後、コトル湾のあるドゥブロヴニク地域はイタリア王国の支配下に置かれ、1810年から1814年の間はフランスのイリュリア州に含まれていた。
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