ラウエンブルクとビュートーとは? わかりやすく解説

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ラウエンブルクとビュートー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/15 10:19 UTC 版)

ブロンベルク条約」の記事における「ラウエンブルクとビュートー」の解説

ラウエンブルクとビュートー(英語版)は1658年4月ポーランドヤン2世カジミェシュの代表イグナーツ・ボコフスキ(Ignatz Bokowski)から正式にブランデンブルク=プロイセン代表アダム・フォン・ポデヴィルス(ドイツ語版)とウルリヒ・ゴットフリート・フォン・ゾムニッツ(Ulrich Gottfried von Somnitz)に引き渡された。引渡し式典最中平民ブランデンブルク選帝侯に対してそれまでポンメルン公に対してとった臣従宣誓と全く同じ宣誓をし、一方貴族臣従宣誓変更された。宣誓はラウエンブルク区の貴族63家とビュートー区の貴族43が行い、代表者数は合計220人だった。そのうちポーランド語宣誓した者は3人だった。しかし、ブランデンブルク=プロイセン政府はこれら106家を全て貴族として認めたわけではなく5月にラウエンブルク区のうち現地出身者13家とポンメルンからの移民6家、およびビュートー区のうち4家が貴族として認められた以外は「特殊自由民」(besondere freye Leute)として扱われた。 ブランデンブルク選帝侯称号に「ラウエンブルクとビュートーの領主」(dominus de Lauenburg et Bytaw)を付け加えたポーランド抗議して領主」(dominus)を「受託者」(fiduciarus)に変更させようとしたが失敗した。ラウエンブルクとビュートーの行政の中心地1771年まで、ラウエンブルク(現ポーランドレンボルクであった。ラウエンブルクは現地のオーバーハウプトマン(Oberhauptmann)とセイミク(Seymik)という貴族集会を行うラントターク(英語版)の所在地となっているほか、貴族選帝侯忠誠を誓う場所でもあった。1771年以降、ラウエンブルクとビュートーはブランデンブルク領ポンメルン(英語版)のそれ以外部分同じくシュテッティン(現ポーランドシュチェチン)から統治されるようになり、プロイセン王忠誠を誓う場所もシュテッティン移動された。 ブランデンブルクからの使節ポーランド王の任命を受けるという条項1698年まで守られた。それ以降ブランデンブルク=プロイセン使節派遣取りやめた。ブロンベルク条約1772年第一次ポーランド分割の後、1773年ワルシャワ条約に取って代わられた。ワルシャワ条約ではカトリック教会貴族への保障などブロンベルク条約条項取り消しポーランド王はラウエンブルクとビュートーに対すすべての権利放棄した。これにより、ラウエンブルクとビュートーは封土ではなくなり、ホーエンツォレルン家断絶してポーランド王は継承を有さなくなった

※この「ラウエンブルクとビュートー」の解説は、「ブロンベルク条約」の解説の一部です。
「ラウエンブルクとビュートー」を含む「ブロンベルク条約」の記事については、「ブロンベルク条約」の概要を参照ください。

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