ヨアヒム・フリードリヒ・フォン・シュトゥッターハイムとは? わかりやすく解説

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ヨアヒム・フリードリヒ・フォン・シュトゥッターハイム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/07/19 13:05 UTC 版)

ヨアヒム・フリードリヒ・フォン・シュトゥッターハイム
ヨアヒム・フリードリヒ・フォン・シュトゥッターハイム
ゼレンドルフの騎士領

ヨアヒム・フリードリヒ・フォン・シュトゥッターハイムJoachim Friedrich von Stutterheim、または「老シュトゥッターハイム(Alt-Stutterheim)」、1715年11月2日、ゼレンドルフ (de:Sellendorf、ニーダーラウズィッツ (Lower Lusatia-1783年8月26日ケーニヒスベルク)はプロイセン王国中将である。

目次

生涯

シュトゥッターハイムは偶然に出会ったプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世に好意を抱き、かつてザクセン選帝侯領大尉であり、今や領主として暮らしていたの許可を得て1729年ベルリン士官学校に入学した。そこから1732年士官候補生 (de:Fahnenjunkerとして「クレッヒャー」歩兵連隊に配属される。 同連隊で彼は1735年に准尉 (de:Fähnrich、そして1739年少尉へ昇進した。

そのまま第一次シュレージエン戦争を迎えると、早くもモルヴィッツの戦いにおいて抜群の戦功を挙げ、国王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)からプール・ル・メリット勲章を授かり、カミン大聖堂 (de:Dom zu Cammin (Kamień Pomorski)聖堂参事会員の職を賜るとともに、「ラ・モット」歩兵連隊に属する1個中隊指揮1806年に「古プロイセン第17歩兵連隊(Altpreußisches Infanterieregiment Nr. 17)」に改称)を託された。 この後、シュトゥッターハイムはコトゥズィッツの戦いホーエンフリートベルクの戦いおよびゾーアの戦いに参加している。なお、ゾーアの戦いで負傷した。

1747年少佐に昇進するとロボズィッツの戦いで改めて大功を立て、大王から異例の恩給、年額500ターラーを下賜された。そして1757年5月、中佐として連隊の指揮官に就任すると同年中に大佐に昇進し、プラハコリンブレスラウそしてホッホキルヒで戦う。1759年には少将に昇進し、かつての「カナハー」歩兵連隊(1806年に「古プロイセン第30歩兵連隊」に改称)を自身の指揮下に引き継ぐ。

同年、プロイセン公子ハインリヒの指揮下に入ると公子は9月13日、ゲルリッツから出した手紙の中で、シュトゥッターハイムがフリートラントの物資集積地を焼き払い、捕虜700名を得たと書いている。

1760年、シュトゥッターハイムはリーグニッツトルガウで戦った。そしてトルガウでは重傷を負っている。1761年、ハインリヒ公子の軍団に復帰すると1600名を託され、ブランデンブルク辺境伯領スウェーデン軍から防衛するため、同地へ派遣される。1762年、最後の遠征にも彼はハインリヒ公子に従って参加した。同年10月29日、フライベルクの戦いにおいてシュトゥッターハイムは左翼を指揮し、攻勢を担っている。そして勝利への貢献に報い、マクデブルクにある聖ニコライ教会 (de:Sankt-Nikolai-Kirche (Magdeburg)司教座聖堂参事会員職を賜った。

1763年講和条約が締結されると、フリードリヒ大王はシュトゥッターハイムを東プロイセンの歩兵総監に任じ、ケーニヒスベルクへ派遣した。1768年、中将に昇進すると黒鷲章 (en:Order of the Black Eagleと別の連隊(「カーニッツ」歩兵連隊 (de:Regiment Kanitz zu Fuß、1806年に「古プロイセン第2歩兵連隊」に改称)を賜っている。またケーニヒスベルク、ピラウおよびメーメル総督に任命された。

1778年バイエルン継承戦争が勃発するとシュトゥッターハイムはフリードリヒ大王の軍において、上シュレージエン (Upper Silesiaの軍団の先鋒となり、トロッパウを占領している。

その後、「老シュトゥッターハイム」が没する少し前にフリードリヒ大王は手紙を彼の許へ送った[1]

貴殿の運命は、我がものよりも良き手に委ねられてなどいなかったと断言できる。貴殿の奉仕は我が心の中に、忘れられず残るであろう。 -フリードリヒ2世

記念碑

シュトゥッターハイムのは、ウンター・デン・リンデンにあるフリードリヒ大王の騎馬像 (de:Reiterstandbild Friedrichs des Großenに刻まれている。

家族

彼はゾフィー・テレーゼ・フォン・レットウ(1719年あるいは1720年-1807年9月6日、シュテッテンブルッフ)と結婚した。子息は

  • ルートヴィヒ・アウグスト・フォン・シュトゥッターハイム (de:Ludwig August von Stutterheim1750年-1826年)、プロイセン王国の歩兵大将
  • オットー・ゲオルク・フォン・シュトゥッターハイム(Otto Georg von Stutterheim)

の2名である。オットーはハインリヒ・ヴィルヘルム・フォン・アンハルト (de:Heinrich Wilhelm von Anhalt中将の長女、ヴィルヘルミーネ・フリーデリーケ・フォン・アンハルト(1770年12月16日-1802年ピサフランス帝国)と結婚し、1797年離婚した。

個別の典拠

  1. ^ レオポルト・フォン・ツェトリッツ=ノイキルヒ(Leopold Freiherr von Zedlitz-Neukirch)著:『Pantheon des preußischen Heeres』、 ベルリン、 1835年(ドイツ語)

文献

(ドイツ語版の記事に挙げられていたもので、翻訳者が項目の作成にあたり、閲覧したものではありません。)

  • Bernhard von Poten: Stutterheim, Joachim Friedrich von. In: Allgemeine Deutsche Biographie (ADB). Band 37, Duncker & Humblot, Leipzig 1894, S. 74 f.
  • Eckart von Stutterheim und Kurt von Stutterheim: Die Herren und Freiherren von Stutterheim/Alt-Stutterheim. Verlag Degener & Co., Neustadt an der Aisch 1965, P. 143–144、P. 144の図版 および P. 219–224、 P. 220の図版。
  • クルト・フォン・プリースドルフ (de:Kurt von Priesdorff:Soldatisches Führertum. Band 1, Hanseatische Verlagsanstalt, Hamburg 1937, Nr. 501, P. 490 ff. (図版付き)



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