ヤンカウの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/13 07:49 UTC 版)
「レンナート・トルステンソン」の記事における「ヤンカウの戦い」の解説
デンマークの制圧を終えたトルステンソンは、三度ドイツへ戻った。1644年11月23日、ユーターボークの戦いで勝利したスウェーデン軍はボヘミアへ侵攻。1645年2月24日、帝都プラハの南南東わずか50キロの地点で皇帝軍と対峙した。このヤンカウの戦いにおいて、皇帝軍に死傷4,000人、捕虜4,500人という多大な損害を与えて壊滅させたスウェーデン軍はプラハの門前へ迫り、皇帝フェルディナント3世はレーゲンスブルク、リンツを経てウィーンへ逃亡した。このスウェーデン軍の圧勝を契機に、停滞していた講和会議が本格的に始動したものの、条約締結にはなお3年の歳月が必要であった。 目覚しい勝利を幾度も手にしたトルステンソンだったが、この頃にはますます体調が悪化しており、軍務が耐えがたくなっていた。1646年、トルステンソンは司令官を辞職、後任にはカール・グスタフ・ウランゲルが就任した。 スウェーデンに帰国したトルステンソンは、1647年にオルタラ伯爵に叙された。1648年から1651年にかけて、オルタラ伯はスウェーデンの西部諸州の総督を務めた。また、カール10世の軍事教官も務めた。1651年4月7日、オルタラ伯はストックホルムで亡くなり、リッダルホルム教会に埋葬された。
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