ムザッファル1世以降
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1295年、死期を悟ったムザッファル1世は息子であるアシュラフ1世を次期スルターンに指名してスルターン位を移譲した。ムザッファル1世は同年に死去した。ムザッファル1世の死去の報を聞いたアシュラフ1世の兄弟であるムアイヤド1世は、スルターン位を狙ってアシュラフ1世を攻撃した。アシュラフ1世はこれを撃退し、ムアイヤド1世は幽閉された。 アシュラフ1世は1296年、在位2年目にして急死した。アシュラフ1世の息子であるアーディルとナースィルはそれぞれ遠方に滞在していたため、幽閉されていたムアイヤド1世が第4代スルターンに即位した。これ以降、ムアイヤド1世の直系の子孫がラスール朝のスルターンとなる。ムアイヤド1世の治世にはザイド派勢力の攻撃やクルド人などによる反乱、また、兄弟であるマスウード1世や、前述のナースィルによる謀反が発生するなど政治的な混乱が発生した。しかし、経済は安定的な成長を続けた。 ムアイヤド1世の後を継いだムジャーヒドは即位後から叔父にあたるマンスールやその息子であるザーヒルとスルターン位を巡って対立した。ザーヒルは12年に渡ってティハーマを支配したため、この間、ラスール朝は2つに分割された。この内紛に誘発されてラスール朝の各地で部族衝突が発生した。これを受けてムジャーヒドはマムルーク朝のスルターンであるナースィルに援軍の派遣を要請した。イエメンへの勢力拡大を狙っていたナースィルはイエメンに向けてマムルークとアラブの混合部隊を派遣した。マムルーク朝軍は1325年にザビードに侵入した。これを知ったザビードの住民やザーヒルはムジャーヒドに降伏し、ラスール朝は統一へ向かった。 マムルーク朝軍によってイエメンが支配されることを恐れたムジャーヒドは、彼らへの糧食や物資の提供を拒んだ。これを受けてマムルーク朝軍は各都市で略奪を行ったが、1325年8月にはマッカに撤退した。
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