ポール・S・L・ジョンソンとは? わかりやすく解説

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ポール S.L.ジョンソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/01/25 18:19 UTC 版)

ポール S.L. ジョンソン(1911年)

ポール・サミュエル・レオ・ジョンソン(Paul Samuel Leo Johnson)(1873~1950)[1]=通称『P.S.L.ジョンソン』は、「レーマン家庭宣教運動」( Laymen's Home Missionary Movement)[2]の創始者であり、アメリカの聖書研究者および牧師であった。彼は 「聖書の洞察研究」(Epiphany Studies in the Scriptures)と題する17巻の信仰書籍を著作した。そして、およそ1918年から1950年に彼が亡くなるまでの間に2冊の雑誌を出版した。この宣教運動はペンシルベニア州のチェスター・スプリングで運営しながら、彼の宣教の使命と著作の出版をほとんど成し遂げるまで創作し続けた。

また、「ものみの塔聖書冊子協会」(Watchtower Bible and Tract Society)の創始者チャールズ・ラッセル(Paster. Charles Taze Russell)と親交のあった人物として知られ、ラッセル亡き後の次期会長とまで目された。だがその後、組織の内紛と権力闘争に巻き込まれ、2期目の会長であったジョセフ・ラザフォード(Joseph Franklin Rutherford)によって一切の職権を剥奪されたあげく1917年に組織から追放されてしまった。[3][4] その後、ラザフォードのグループ(現在の「エホバの証人」)とは袂を分かち、ラッセルを擁護する「ラッセル派」として世界各地で活躍した。

経歴

ポール S.L.ジョンソンは1873年10月にペンシルベニア州ティタスビル(Titusville)という町で、ポーランドから少し前に移住してきたユダヤ人の両親との間に生まれた。彼の父親は著名なヘブライ語学者であり、ついにはティタスビルのシナゴーグの会長にまで就任した人物であった。彼の母親は彼が12歳の頃に亡くなり、また父親は他の女性と再婚した。この両方の出来事が彼自身の苦悩の種となった。彼は何度も家出を繰り返した。

結局、彼はキリスト教に改宗し、メソジスト教会に参加していった。

1890年に、彼はオハイオ州コロンバス首都大学(Capital University of Columbus)に入学し、1895年に優秀な成績にて卒業した。前述の大学図書館の記録によると、彼はポール・レヴィスキー(Paul Levitsky)という名で学籍登録されていた。それから彼は、ルーテル教会オハイオ・シノド神学校(Theological Seminary of the Ohio Synod of the Lutheran Church)に進学し、1898年に卒業した。短い間だがペンシルベニア州マーズのルーテル教会にて牧会した。それから、オハイオ州コロンバスに戻り、サリバント通り(Sullivant Ave.)にある聖マタイ・ルーテル教会にて牧会した。 だが結局はハイウェイ整備事業による道路建設のために、その会堂は取り壊されてしまった。彼は、短い期間に新しい教会堂をそこの近くの場所に建てて、また、多くの人々にバプテスマ(洗礼)を施させ、ルーテル教会シノドの他の牧師たちと比べて、より少額の寄付金で賄っていたことが〔キャピトル大学シノドの記録に〕書きとめられていた。[5]

1903年5月には、ジョンソンは、彼自身の信仰の移り変わりの帰結としてルーテル教会を去った。 そして、「ものみの塔協会」(Watchtower Society)のコロンバス会衆と親交を始めた。かのルーテル教会は、後になって「彼自身の異説により、ものみの塔協会はジョンソンと断絶していた」と主張した。 だが真実は・・・ ジョンソンは彼自らの自由意志によって、ものみの塔協会をすでに去っていた。一年後のある日に、チャールズ・ラッセル牧師は、国際聖書研究者の"巡礼者"としてジョンソンを任命した。彼はやがてラッセル牧師の個人秘書を務めた。そののち彼はラッセルの最も信頼できる友人およびアドバイザーとなった。彼は、ものみの塔会長の教説に挑戦したことによる組織内部の抵抗運動の検閲の結果として、1910年に神経衰弱により病を被った。

ジョンソンは、1905年1月3日にエマ・マクラウド(Emma McCloud)と結婚したが、その後は子供には恵まれなかった。

ジョンソンは、ラッセルの亡くなった後の、[6]ジョセフ・ラザフォードが組織の指揮権を継承したときに、ものみの塔協会を去った。 それから彼は「レーマン家庭宣教運動」を1919年に創立し、1920年から彼の亡くなる1950年まで、この宣教運動の評議会の指導者を務めた。 {出典}[7]

脚注

  1. ^ かつての名は「ポール・サミュエル・レヴィスキー・ジョンソン」(Paul Samuel Levitsky Johnson)
  2. ^ ここで云うレーマン(Laymen's)とは、牧師・司祭などの教役者の資格を持たない在俗信徒,一般信徒,または信徒説教者のこと。 直訳すると「在俗信徒たちの家庭宣教者運動」となる。
  3. ^ JWIC.INFO エホバの証人情報センター保管庫 歴史:第二部「ラザフォードによる組織の拡大」(2.1917年の大分裂)参照。
  4. ^ 『エホバの証人-神の王国をふれ告げる人々』WATCHTOWER Bible and Tract Society of Pennsylvania,ものみの塔聖書冊子協会,1993年 p627-628
  5. ^ シノド(Synod)とは、教会会議または宗教会議のこと。
  6. ^ ラッセルは、1916年10月31日正午過ぎに、巡回講演の帰り、テキサス州サンアントニオからブルックリンに戻る汽車の中で突然の健康状態悪化(心臓発作)のため亡くなった。64歳没。
  7. ^ Spiegel ONLINE JOHNSON, Paul Samuel Leon ポール S.L.ジョンソンの生涯について。(ドイツ語)

関連項目

以下、日本語の情報。

外部リンク


ポール S.L.ジョンソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/05/26 05:09 UTC 版)

レーマン家庭宣教運動」の記事における「ポール S.L.ジョンソン」の解説

オハイオ州コロンバス首都大学(Capital University of Columbus)を優秀な成績にて卒業した後、ルーテル教会オハイオ・シノド神学校(Theological Seminary of the Ohio Synod of the Lutheran Church)を卒業したジョンソン牧師は非常に並外れた方法聖書原語原文)よりその意味理解するために必要な技能提供してくれた、ギリシャ語ヘブライ語学者であった神学校学んだ教理神学のひとつは、例のごとく永遠苦しみ地獄であった。彼は、"唯一なる神"の完全な英知、公正、力と愛、かつて神に敵対していた人間たちに、永遠に刑罰下されない事も、その刑罰さえも神の御心ではない事も、信じようになった。彼は、聖書教えは、かの如く罪の報いによる刑罰は"死"であり、永遠責め苦ではない(地獄存在しない)という見解採用した

※この「ポール S.L.ジョンソン」の解説は、「レーマン家庭宣教運動」の解説の一部です。
「ポール S.L.ジョンソン」を含む「レーマン家庭宣教運動」の記事については、「レーマン家庭宣教運動」の概要を参照ください。

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