ポントス王国の介入とローマ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/08 03:58 UTC 版)
「ボスポロス王国」の記事における「ポントス王国の介入とローマ」の解説
紀元前125年に即位したパイリサデス5世の治世になると、スキタイ人を初めとする遊牧民の圧力は更に増大した。そしてスキタイ人サウマコスとの戦いが発生すると、パイリサデス5世は黒海の南岸で勢力を拡大していたポントス王国の王ミトリダテス6世に救援を要請した。ミトリダテス6世はただちに将軍ディオファントスを派遣した。結局パイリサデス5世はサウマコスによって殺害されるが、ディオファントスの指揮するポントス軍はこれを破ってボスポロス王国をポントスの勢力圏内に収めた。ここまでの経緯でスパルトコス朝の支配は終わった。 だが、そのミトリダテス6世も数次にわたるミトリダテス戦争でローマに敗北を重ね、最後はローマの支持の下で発生した王子ファルナケス2世の反乱によって自殺に追い込まれた(紀元前63年)。ローマによってボスポロス王位を認められたファルナケスはローマの宗主権を認め、パンティカパイオンやケルソネソスなどの都市にはローマ軍が駐屯するようになった。だがファルナケスとローマとの間に次第に対立が生じ、ローマはアサンドロスという男に「執政官」職を認めてファルナケスを殺害させた。アサンドロスは血統的正当性を保つためにファルナケスの娘デュナミスを妻とした。 アサンドロス死後デュナミスは女王となったが、政治的影響力確保を図るローマの介入や、デュナミスの数度に渡る結婚で政治混乱が深刻化した。ようやくコテュス1世(西暦45年 - 62年)の治世に政治混乱は収束したが、同時にローマの宗主権も磐石の物となった。以後ローマの従属王国として存続する。
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