ポントス王国の統治下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 09:29 UTC 版)
ミトリダテス6世は紀元前83年にこの地方の反乱を鎮めると、息子のミトリダテス・クレストゥスにコルキスを与えた。しかしこの息子は父親に対して陰謀を企てた容疑で、まもなく処刑された。第三次ミトリダテス戦争の期間、ミトリダテス6世は別の息子Macharesをコルキス王にしたが、彼が権力をふるったのは短い間だった。紀元前65年にミトリダテス6世がローマに敗北すると、コルキスはグナエウス・ポンペイウスに占領された。ポンペイウスはこの地方の長の1人であったOlthacesを捕虜にし、その代わりにアリスタルコスを王朝の君主とした(紀元前65年〜紀元前47年)。 ポンペイウスの失脚後、ミトリダテス6世の子ファルナケス2世が、ガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)がプトレマイオス朝の内紛(ナイルの戦いを参照)にかかりきりだったのを幸いに、カエサルが派遣したグナエウス・ドミティウス・カルウィヌスを破って、コルキス、アルメニア、ならびにカッパドキアの一部を落としたが、ゼラの戦いでファルナケスはカエサル軍に敗れた。ファルナケス2世の子で後継者でもあるポルモン1世の支配下、コルキスはポントス王国ならびにボスポロス王国の一部であった。ポレモン1世の死後(紀元前2年以降)、その2番目の妻Pythodoridaがポントスとともにコルキスを支配し続けたが、ボスポラス王国は彼女の権力を剥奪した。彼女の息子で後継者のポレモン2世は、ローマ皇帝ネロによって王位の放棄を説得され、ポントスならびにコルキスはガラティア(63年 )後にはカッパドキア(81年)の属州に組み込まれた。
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