ペレヤースラウ条約の締結
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「フメリニツキーの乱」の記事における「ペレヤースラウ条約の締結」の解説
1654年1月18日、日曜日の朝、フメリニツキーは、12人のコサック連隊長を中心とした代表団とロシア・ツァーリ国と保護についての非公開の会議を行い、保護条約の締結に関して全員の合意を得た。午後2時より、200人のコサック長官と平士がコサック軍の総合会議に呼集され、ペレヤースラウ条約を結ぶ儀式が始まった。フメリニツキーは、集まったコサックに向かってツァーリの保護を受けることに賛成かを訊ね、コサック全員は賛成であると承認した。会議は稀に見る調和の雰囲気で行われたが、ペレヤースラウ大聖堂でツァーリへの誓約をめぐって問題が生じた。ロシア・ツァーリ国から派遣された聖職者はコサックがアレクセイ・ツァーリに忠節を誓うように請求すると、フメリニツキーは驚き、先にロシア・ツァーリ国の使者がロシア・ツァーリ国に代わって「コサックの棟梁とザポロージャのコサック軍の全員をポーランド側に出さないことと、コサックの自治権などを侵さないこと」を約束するように求めた。それに対してブトゥルリーン大使は、ロシア・ツァーリ国において君主は部下に誓約を立てないと反発し、コサック側はロシア・ツァーリ国の援助が必要しているので、疑いなくツァーリを信用して誓うべきだと主張した。フメリニツキーとコサックの長官は急に大聖堂を出て、長い会議を行ったが、巧みに事を進める良策がなかったので、大聖堂に戻って一方的にツァーリへの忠節と、「町々と領土と共に、ツァーリの御手下に永久にあるよう」と誓約を立てた。 ペレヤースラウでの保護儀式の後、ロシア・ツァーリ国の使者はコサックの17の連隊区とウクライナの町々へ出発し、1654年1月から2月にかけて12万7千人をツァーリへの忠節を誓約させた。誓約を立てるのを否定したのは、ウクライナ正教会の最高聖職者、ペレヤースラウ・キエフ・チョルノーブィリの町人の一部、ウーマニ連隊区、ブラーツラウ連隊区、ポルタヴァ連隊区とクロプィーウニャ連隊区であった。さらに、ザポロージャのシーチも長い間誓約を避けていた。しかし、全体としてウクライナの住民は、ペレヤースラウ条約の締結が戦争を拡大するための用法であることを忘れて、ロシア・ツァーリ国の保護国になることによって平和な時代が来ると期待され、挙って誓約を立てた。
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