フーゼスターンをめぐる争い
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「フーゼスターン州」の記事における「フーゼスターンをめぐる争い」の解説
フーゼスターンを動揺させる分離主義運動を最初に起こしたのは、シェイフ・ハズアルである。彼は初め英植民地主義者によって後援され、1897年には権力を握った。しかし最終的には1925年にレザー・シャーに逮捕され、この地域はイランの支配下に帰った。 フーゼスターンの支配はイラン・イラク戦争におけるサッダームの戦略的な第一目的であり、同地を「アラビースターン」と呼び、アラブ領土の失地回復という大義名分を掲げて、イラク領への併合を目論んだ。これにより多数のイラン人が避難を余儀なくされた。 イラン・イスラーム共和国政府は公式な民族統計調査を行っておらず、各民族人口の決定は困難である。1990年代初頭より、ペルシア人のフーゼスターン住民が、主要都市の再建・復興にともない帰還をはじめ、この趨勢は現在も続いている。復興はイスラーム共和国体制による軽視のために遅々としたものであった。ホッラムシャフルの街はサッダームの焦土作戦によってほとんど完全に壊滅した。幸いにもイラン軍はイラク軍が他の主要都市部への焦土作戦の実施を阻止することができた。 1980年のロンドンイラン大使館占拠事件はサッダームの後援するアラブ分離主義者によってはじめられたテロリストによる事件であった。当初、フーゼスターンにおける自治を要求したものであったが、のちには獄中の91人の同志の釈放を要求するようになった。アラブ分離主義者はサッダームのペルシア人およびイラン内のアラブ人の戦闘員・非戦闘員への攻撃を支持した。これはイラン人に対する民族浄化であり、大多数のフーゼスターンのアラブ人住民は、イランに忠誠を誓い、他のイラン人たちと肩を並べて闘ったのである。戦争末期、イラク軍の撤退にともない、分離主義者らもイラク領内へと逃亡した。サッダームはその後も長くフーゼスターンに対する侵略の企図を抱き続けた。戦後もフーゼスターン州では、サッダームに支援された分離主義者によるテロが起きている。 現在、フーゼスターン州からはマジュレス(イラン国会)に18人、専門家会議に6人の代表が送られている。
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