フォルサム・ストリート・フェアの成り立ち
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「フォルサム・ストリート・フェア」の記事における「フォルサム・ストリート・フェアの成り立ち」の解説
1970年代を通じ、この地区のコミュニティはサンフランシスコ市の野心的なサウスオブマーケット再開発プランに対して積極的に抗い続けてきた。市当局は、リンコン・ヒルで既に成功していた高層開発を継続することで、歴史的にブルーカラーの街、倉庫街、そして工業地区であったこの街を「活性化」させたいと考えていた。 「en:Leather subculture」も参照 しかしながら、1980年代にエイズの流行が始まると、コミュニティがもっていた市当局からの相対的な自治性は劇的に弱まった。この危機はサンフランシスコ市にとって(公衆衛生の名の下に)有料発展場やゲイバーを閉鎖する絶好の機会になった。結果、1984年、市政府はそれらの商業施設の閉鎖を行うにいたった。 レザーコミュニティに属していた施設が閉鎖されていくなかで、住宅活動家たちとコミュニティオーガーナイザーらは互いに結託してストリートフェアを始めることを決断した。彼らは、フェアの開催によって、コミュニティそのものの知名度を高め、望まれていた資金調達の場を作り、また、レザーコミュニティの構成員のためのサービスや、本来は有料発展場やバーが提供するべきである(セーファーセックスについてなどの)類の情報を知る機会を作ろうとした。 1984年、最初のフォルサム・ストリート・フェアが成功のうちに終わったことで、主催者たちは翌年1985年にリンゴールドストリートで「アップ・ユア・アリー・フェア(英語版)」を始めることができた。1987年、このイベントは、ハワード・ストリートとフォルサム・ストリートの間に位置するドアーストリート(ドアー・アレー)へと移転した。 スナップ写真家のマイケル・ラバビーは、ジェントリフィケーションが進行するサンフランシスコとフォルサム・ストリート・フェアを評して、自著で次のように述べた。 芸術家と詩人の世紀がアルゴリズムの使い手と温室育ちのヒップスターに取って代わられつつあるが、ミレニアム・タワー (サンフランシスコ)(英語版)は没し、フォルサムストリートフェアはその場に立っている。
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