フィリピン・ミンダナオ島ザンボアンガ
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「佐々木丙二」の記事における「フィリピン・ミンダナオ島ザンボアンガ」の解説
1944年(昭和19年)6月、マリアナ沖海戦の敗北で連合艦隊は空母部隊による戦闘能力を喪失し、タウィタウィ泊地の維持の必要性がなくなったため、同年8月、佐々木はザンボアンガ派遣隊長として、ホロ島からミンダナオ島へ転任し、在留邦人婦女子の内地引き揚げを成功させた。その後、ボンガオからザンボアンガへ転進してきた第33警備隊(33警)司令承命服務により33警副長を兼務。 また、ムスリムであるモロ族のスルタン(サルタン)や有力ダトゥと良好な関係を築き、ラナオ州、コタバト州、ザンボアンガ州、スールー州などのモロ族による民族自決の独立国家建設を目指し「回教徒連盟」(ムスリム連盟)の結成に尽力したが、1945年(昭和20年)3月のアメリカ軍上陸による戦況悪化により実現しなかった。ミンダナオ島防衛戦の緒戦におけるザンボアンガ海軍部隊の敢闘に対し、豊田副武連合艦隊司令長官は特に賞詞を贈って偉勲を讃えたが、同年4月26日以降は32特根ダバオ司令部との通信連絡が途絶。持久戦の末、大東亜戦争終結ノ詔書発布後の同年9月1日、同地にて戦病死したとされる。4,120名いたザンボアンガ海軍部隊兵力(同年3月10日現在人員)が、終戦時収容人員は271名となっていた。
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