ファインアートの到来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 01:23 UTC 版)
「ファインアート」の記事における「ファインアートの到来」の解説
日本には開国後の明治時代に、さまざまな西洋文化がいちどに入ってきた。リベラル・アートが西周 (啓蒙家)によって「芸術」と翻訳された(1870年の『百学連環』?)。1873年(明治6年)、当時の日本政府がウィーン万国博覧会へ参加するに当たり、出品する品物の区分名称として、ドイツ語の Kunstgewerbe および Bildende Kunst の訳語として「美術」を採用した。また、西は1872年(1878年説もあり)『美妙学説』で英語のファインアート(fine arts)を「美術」と翻訳した。その後「美術」は、ファインアートのうち視覚芸術に限定して使われ、これからはみだした、詩、音楽、演劇なども含むファインアートに相当する日本語としては「芸術」が使われるようになった。 ファインアートは18世紀のヨーロッパで確立したものなので、他地域たとえば日本や、時代を越えて適用するには問題がある。たとえば東洋美術では書画として書も美術品のひとつと扱われるが、書は欧米の言うファインアートにはあたらない[要出典]。そもそも、東洋には実用品から遊離した美術品と言えるものはほとんどない[要出典]。絵巻物は西洋の挿絵に相当し、障壁画や屏風絵は家具の一部なので、西洋の定義ならほとんどが応用美術、工芸に属する。けっきょくウィーン万国博覧会へは、絵付けされた陶磁器を主力に出品した。工芸かファインアートか、その狭間を狙ったことになる。ファインアートたる美術と、応用美術たる工芸の区分を明治の日本は認識することになるが、上記の事情から、日本では美術と工芸を纏めて扱うことが多くなる。
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