ビジネスとしてのボクシング
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 05:35 UTC 版)
「ジミー・カラザース」の記事における「ビジネスとしてのボクシング」の解説
カラザースの次期防衛戦は11月にシドニーで予定されており、プロモートするニューサウスウェールズ警察市民少年クラブ連盟 (Federation of New South Wales Police-Citizens Boys' Clubs) は主なバンタム級選手に対戦を打診していた。1953年8月13日、ニューヨークでは米国人で世界ランク2位のパピー・ゴールトが、条件が折り合わない限りカラザースとはシドニーで対戦することはないと主張していた。翌14日、世界1位にランクされるロベール・コーエンがロンドンにいる代理人ロベール・ディアモンを通じて「いつでもどこでもカラザースと戦う」と発表。ディアモンは、コーエンは巧くパンチの重いボクサーだが、英国のプロモーターであるジャック・ソロモンからはコーエンへのオファーを受けたという報告を聞いていないと語った。コーエンはアルジェリア出身のユダヤ系フランス人で、プロ27戦のうち負けは1試合のみ。この年、ゴールトとの10回戦に判定勝利している。ヘラルド紙のニューヨーク通信員によれば、ゴールトはファイトマネー7,500ドル、ゲート収入の12.5パーセントとシドニーへの旅費を要求していた。ゴールトのマネージャーの言い分では、カラザースのプロモーターから電報で提示された条件はゲート収入の配分と旅費の他にファイトマネー5,000ドルというもので、世界王座は欲しいが、その額ではオーストラリアには行けないとのことだった。カラザースのマネージャーのマギルは、コーエンにもジャック・ソロモンを通じてすでに電報でオファーを送っていたことを説明し、またゴールトの条件は法外であり、彼を選択肢から外すことは簡単だと話した。 しかし最終的にゴールトは対戦の意思を示し、1953年11月にカラザース2度目の防衛戦で対戦することになった。カラザースは眉をカットし、判定で防衛を果たした。この試合はシドニー運動場(英語版)で行われ、オーストラリア記録となる32,500人の観衆を集めた。売上の一部は慈善団体に送られ、カラザースはこれも同国記録となる8,625豪ポンドのファイトマネーを受け取った。
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