バブーフの陰謀と処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 22:24 UTC 版)
「フランソワ・ノエル・バブーフ」の記事における「バブーフの陰謀と処刑」の解説
パンテオン・クラブのうち過激派は、反乱委員会、秘密の執行部を設置。前者は軍や警察、行政の内部に工作員を送り込み、後者は総裁政府が打倒された後に新たな議会が開催されるまでの間、安定的に執行権を行使する予定であった。バラス(Paul Barras)の資金援助を受け、1793年憲法実現のための決起を企図したが、総裁カルノーは会員の1人、ジョルジュ・グリゼル(Georges Grisel)をスパイとして買収していた。計画は、グリゼルによる密告で事前に発覚。決行前日の1796年5月10日(革命暦4年フロレアル21日)に、バブーフは逮捕された。この事件を「バブーフの陰謀」、「平等主義者の陰謀」などと呼ぶ。 裁判はヴァンドームの法廷で10月5日に開始され、1797年 5月26日(革命暦5年プレリアル7日)に、ダルテと共に死刑を宣告された。彼らは、バブーフの息子から渡された短刀で刺し違えて死のうと図ったが果たさず、翌5月27日、ヴァンドームでギロチンにかけられ処刑された。遺体は、ヴァンドーム旧墓地に埋葬された。 この事件でブオナローティは、バブーフと共に拘束され死刑を宣告されたがナポレオンの尽力で死刑を免れ、1828年に『バブーフの、いわゆる平等のための陰謀(Conspiration pour l'Égalite, dite de Babeuf)』を上梓、事件の意義を喧伝した。出版当初はさしたる反響を呼ばなかったが、七月革命の結果に失望した共和主義者の関心を集め、以後バブーフの名は広く知れ渡ることとなった。
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