ハンガリー王国のドゥカート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/24 09:08 UTC 版)
「ドゥカート」の記事における「ハンガリー王国のドゥカート」の解説
ヴェネツィア共和国は極めて活発な貿易国であったが、西ヨーロッパにおいては彼らは主に貿易品を販売しており(つまり、貿易品を購入して硬貨を使う機会が少ない)、一般的にこの地域ではドゥカートよりもフローリンが多く用いられていた。だが、ハンガリー国王のカーロイ1世が金貨の鋳造を始めた際、模倣したものはヴェネツィアのドゥカートであった。彼の息子のラヨシュ1世は、ドゥカート風の聖ヨハネの立ち姿を、フローリン風の聖王ラースローの立ち姿に変更した他、後にフィレンツェのユリを自身の紋章に変更したが、金の純度は維持していた。1400年代、純金で作られたフローリンをドゥカートと呼び、価値の低い模造品のフローリンをグルデンやゴールドグルデンと呼ぶ事で両者を区別していた。1524年、神聖ローマ皇帝のカール5世がヴェネツィア共和国のドゥカートを、グルデンよりも39%高い価値で帝国内の標準通貨とした際、彼はこの区別を認識していた。彼の弟で後に後継者になるフェルディナント1世は、1526年にハンガリーの王位を継承した際、このシステムをハンガリーにも持ち込んだ。これ以降、ハンガリーの金貨の中でも純度の高いものはドゥカートと呼ばれるようになる。こうした金貨は純度が高いためヨーロッパ中で受け入れられた。スコットランド大蔵卿(Lord High Treasurer of Scotland)は、国王さえ賭博にこうしたドゥカートを用いていたとの記録を残している。 ハンガリーはドゥカートの鋳造を、98.6%純度の金を3.5グラム使って続けた。ヴェネツィア・ドゥカートが一定のデザインを守り続けたのとは対照的に、ハンガリー・ドゥカートは裏面の紋章が情勢に応じてしばしば変更された。1470年、マーチャーシュ1世は裏面の紋章を聖母マリアに置き換えた。ハンガリー王国は1915年まで、即ちオーストリアの統治下でさえドゥカートの鋳造を続けた。これらは貿易用の硬貨として使用され、後年再鋳造されたものもある。
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