ハムステッドでの生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 08:30 UTC 版)
「ヘンリー・ムーア」の記事における「ハムステッドでの生活」の解説
ロンドンへ戻るとすぐに RCAで教育する側になり7年間にわたり講義をおこなった。講義は週2日でよかったため自分の仕事に多くの時間を使うことができた。1929年7月には絵の学生であったイリーナと結婚した。イリーナは1907年3月26日にキエフでポーランド系ロシア人の両親から生まれた。ロシア革命の中で彼女の父親は行方不明となり母はイギリスの陸軍士官と再婚しパリへ避難した。イリーナはその1年後にパリへ密入国し16歳になるまでパリの学校で学んだ。その後、継父の親戚と住むため彼の故郷であるバッキンガムシャーへ行くことになる。このような問題の多い幼年期を過ごしたため彼女は多少内向的な性格であったとのことである。しかしムーアとの結婚生活が彼女の心に安らぎもたらし明るく振舞うようになった。 結婚してすぐに二人はハムステッドに移り住んだ。そこは前衛的な芸術家たちが小さな集団を作りそこを根城に活動を始めている場所であった。ほどなくヘップワースと彼女のパートナー、ベン・ニコルソンが引っ越してきた。ナウム・ガボや美術評論家のハーバート・リードもまたその地区に住んでいた。このことはアイデアのさかんな交流をもたらすとともにリードによるムーアの知名度の向上をもたらした。 1930年代の初めムーアはチェルシー芸術学校の彫刻学科の責任者となった。ムーアとヘップワース他のメンバーはフランスへ度々旅行しピカソやアルプ、ジャコメッティなどフランスの芸術家と会うことで影響を受け、より抽象的な作品を生み出すようになった。1933年、ムーアはポール・ナッシュとともシュルレアリスムにも手を出しそのグループであるユニット・ワンに入った。
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