ハミディイェ (防護巡洋艦)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ハミディイェ (防護巡洋艦)の意味・解説 

ハミディイェ (防護巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/24 06:10 UTC 版)

竣工時の「ハミディイェ」
艦歴
発注: アームストロング社エルジック造船所
起工: 1902年4月
進水: 1903年9月25日
就役: 1904年4月
退役: 1947年
その後: 1964年に解体
除籍: 上記同一
性能諸元
排水量: 常備:3,800トン、満載:-トン
全長: 112m
水線長: 103.6m
全幅: 14.5m
吃水: 4.88m(常備)
機関: 形式不明石炭専焼円筒缶16基+三段膨張式四気筒レシプロ機関2基2軸
最大出力: 12,000shp
最大速力: 22.5ノット
航続性能: 10ノット/5,000海里
燃料: 石炭:600トン
乗員: 310名
兵装: アームストロング 15.2cm(45口径)単装速射砲2基
アームストロング 12cm(45口径)単装速射砲8基
47mm(43口径)単装砲6基
オチキス 37mm機砲6基
45.7cm水中魚雷発射管単装2基
装甲: 甲板:38mm(傾斜部)、101mm(傾斜部)

ハミディイェトルコ語:Hamidiye)は、オスマン帝国海軍防護巡洋艦。同型艦はない。

概要

1901年度計画においてイギリスに1隻を発注した艦である。予算的な問題で機関の調達が難航したために本艦のボイラーは旧式となった。

艦形

竣工時の「ハミディイェ(左奥)」と「メシディエ(右手前)」
竣工時の「ハミディイェ」の模型。


艦の構造を前部から記述すると、水面下に衝角の付き、水線部に45.7cm水中魚雷発射管の付く艦首、主砲の15.2cmを防楯の付いた単装砲架で1基が配置され、その後方から上部構造物が始まり、に両脇に船橋(ブリッジ)を設けた操舵艦橋を基部として中段部に1段の見張り所を持つ前部マストが立つ。船体中央部に等間隔に3本煙突が立ち、その周囲には煙管型の通風塔が立ち並び、空いた場所は艦載艇置き場となっており、艦載艇は2本1組のボート・ダビットが片舷2組で計4組により運用された。

左右の舷側に副砲である12cm速射砲が防盾の付いた単装砲架で等間隔に片舷4基ずつ計8基が配置された。後部甲板上に前部と同じ様式の後部マストと後部見張所で上部構造物が終了し、その下の後部甲板上に後部主砲が後向きで1基配置された。

武装

主砲

主砲は「1899年型 15.2cm(45口径)速射砲」を採用している。その性能は重量45.4kgの砲弾を仰角20度で13,350mまで届かせられるこの砲を単装砲架で2基を搭載した。砲架の俯仰能力は仰角20度・俯角7度で旋回角度は300度の旋回角度を持っていた。砲の旋回、砲身の上下・砲弾の装填の動力は人力を必要とした。発射速度は毎分5~7発である。

その他の備砲・雷装等

他に対水雷艇火器として「1895年型 12cm(45口径)速射砲」を採用している。その性能は重量22.7kgの砲弾を最大仰角20度で10,940mまで届かせることが出来た。砲架の俯仰能力は仰角20度・俯角10度である。さらに旋回角度は360度の旋回角度を持っていたが実際は上部構造物により制限を受けた。砲の旋回、砲身の上下・砲弾の装填の動力は人力を必要とした。発射速度は毎分10発である。

その他に近接火器として「47mm(43口径)単装砲」を6基、「オチキス 37mm機砲」6基装備した。対艦攻撃用に45.7cm水中魚雷発射管単装2門装備した。

1915年に12cm速射砲2門と4.7cm速射砲4門と3.7cm速射砲4門を撤去した。1925年から1926年にかけて近代化改装を行った際に「クルップ 15cm(45口径)速射砲」2基と「カネー 7.5cm(50口径)速射砲」8基と45cm水中魚雷発射管2門に更新し、新たに機雷70発を搭載できるようにされた。

艦歴

アームストロング・ホイットワース社エルジック造船所で建造[1]。1900年春[2]、または1901年7月発注[3]。1902年4月[4]、または11月起工[5]。1903年9月25日進水[4][5]。1904年4月27日最終公試[5]、または就役[6]。進水前に予定されていた艦名は「AbdülHamid」であったとも[4]1908年の革命後に改名されたともされる[7]。また、元の艦名は「AbdülHamid II」であったとも[8]

1911年、ジョージ5世戴冠記念観艦式に参加[3]

1911年9月後半、戦艦「Barbaros Hayreddin」、「Turgut Reis」、巡洋艦「ハミディイェ」、「メジディイェ」などは地中海東部で演習を行っていた[9]。この部隊は9月28日にベイルートを出港し、ドデカネス諸島へ向かった[9]。無線を装備した艦艇がいなかったため伊土戦争の勃発を知らなかったが、コス島沖でオスマン帝国の船から状況を知らされると直ちに全速で北へ向かい、10月1日に無事にダーダネルス海峡に到着した[9]。戦争中、「ハミディイェ」の属する部隊はダーダネルス海峡から出撃することはなかった[3]

第1次バルカン戦争

艦尾方向から撮影された「ハミディイェ」。

1912年10月下旬、「ハミディイェ」は「メジディイェ」などとともにヴァルナの砲兵陣地やGalata Burnuの砲台を砲撃するなどした[10]

10月21日から22日の夜、「ハミディイェ」はヴァルナ沖でブルガリア水雷艇「ドルースキ」、「Lettasci」、「Smeli」、「Stogi」の攻撃を受ける[11]。11月22日0時4分、魚雷1本が右舷前部に命中した[12]。ダメージコントロールはよく機能し、またオスマン帝国艦艇としては珍しくすべてのポンプが正常に機能[13]。傾斜は注水によって復旧され、速力は5ノットに落ちたが「ハミディイェ」はコンスタンチノーブルに辿りつくことができた[12]。死傷者はいなかったとも[13]、8名が死亡したとも[14]。命中した魚雷は「ドルースキ」のものであるとも[15]、「Stogi」のものであるとも[13]される。


ギリシャ装甲巡洋艦「イェロギオフ・アヴェロフ」が存在する限りオスマン帝国海軍は戦果を挙げられないということで、巡洋艦によってギリシャの港に対する攻撃を行いそちらに「イェロギオフ・アヴェロフ」を誘引しようという作戦が提案され、「ハミディイェ」がそれに投入されることになった[16]。「ハミディイェ」は1913年1月14日にKephezより出撃[16]。翌日シロス島でギリシャ仮装巡洋艦「Makedonia」(または「Macedonia」、5033総トン)を沈め、また市街を砲撃した[17]。しかし目論見は外れ、「イェロギオフ・アヴェロフ」は動かなかった[16]。その後「ハミディイェ」は会敵を避けるためクレタ島の方へ向かい、ベイルートを経て1月19日にポートサイドに到着[16]。それからスエズ運河を通過して紅海に入った[16]。2月5日、「ハミディイェ」はアルバニア沿岸で作戦するよう命じられる[16]。石炭を積んだイタリア船「Alba」がマルタに手配され「ハミディイェ」はそちらへ向かったが、荒天のためマルタ沖の公海での補給は不可能であった[16]。「Alba」はバレッタへ向かうよう命じられる[16]。しかし「ハミディイェ」がそこに着いた時には「Alba」はベイルートへ向けて出港しており、十分な燃料が得られなかったことからアルバニア沖での作戦は不可能となった[16]。「ハミディイェ」はハイファを経て2月25日にKekavaに到着[16]。それからアンタルヤへ向かい、そこで陸軍向けの現金や弾薬を積むことになったが、物資は時間通りに到着しなかった[16]。「ハミディイェ」は「Alba」から補給を受けるため2月29日にベイルートへ向かい、それから弾薬補給のためAvrat島へ向かう[16]。しかし信管がなかったため、イスケンデルンへ向かうことになった[16]。3月8日、「ハミディイェ」はアルバニアへ向け出発[16]。3月12日、「ハミディイェ」はDračでセルビア軍用の輸送船であったギリシャ船6隻に大きな損害を与えた[16]。3月15日、 Rodni岬沖でギリシャ砲艦「Acheloos」と遭遇し、砲撃して命中弾を与えた[18]。3月16日、アレクサンドリアに到着[19]。3月22日に「ハミディイェ」がベイルートに着くと、アンタルヤで修理と補給を行うとの知らせがあり、「ハミディイェ」はそこへ向かう[19]。3月29日、クレタ島の西でギリシャ帆船「Ispandis」を拿捕[19]。4月2日にベイルートに戻ると、「ハミディイェ」はギリシャ海軍を避けて紅海へ向かった[19]。5月30日、戦争終結。9月5日、「ハミディイェ」はチャナッカレに帰還した[19]

第一次世界大戦

1914年10月29日、ハミディイェはフェオドシヤを砲撃を実施、続いてヤルタで2隻の船を沈めた。11月以降、主に輸送船の護衛に従事した。11月20日、トゥアプセを砲撃。12月25日、バトゥミを砲撃。

第一次世界大戦後

1924年に撮られた本艦

第一次世界大戦後、希土戦争にも参加した。1925年から1926年にかけてコジャエリ県ギョルジュク(Gölcük)で近代化改装が行われて武装を一新した。1930年にヴィッカース・アームストロング社によって老朽化した機関を石炭・重油混焼水管缶に換装して速力22.26ノットを発揮した。

更に第二次世界大戦でも練習艦として現役であったが1945年に除籍され1947年までハルクとなり、イスタンブールにて1949年から1951年に博物館に飾られたが1964年10月9日に解体された。

脚注

  1. ^ Bernd Langensiepen, Ahmet Güleryüz, The Ottoman Steam Navy 1828–1923, p. 149. Peter Brook, Warships for Export, p. 96
  2. ^ Bernd Langensiepen, Ahmet Güleryüz, The Ottoman Steam Navy 1828–1923, p. 11
  3. ^ a b c Peter Brook, Warships for Export, p. 97
  4. ^ a b c Bernd Langensiepen, Ahmet Güleryüz, The Ottoman Steam Navy 1828–1923, p. 150
  5. ^ a b c Peter Brook, Warships for Export, p. 96
  6. ^ Ryan K. Noppen, Ottoman Navy Warships 1914–18', p. 8
  7. ^ Peter Brook, "The Elswick Cruisers Part II", p. 271
  8. ^ Ryan K. Noppen, Ottoman Navy Warships 1914–18', p. 6
  9. ^ a b c Charles Stephenson, A Box of Sand, 5. The Italian’s Land、第17段落
  10. ^ Bernd Langensiepen, Ahmet Güleryüz, The Ottoman Steam Navy 1828–1923, p. 20
  11. ^ Bernd Langensiepen, Ahmet Güleryüz, The Ottoman Steam Navy 1828–1923, pp. 21, 150
  12. ^ a b Bernd Langensiepen, Ahmet Güleryüz, The Ottoman Steam Navy 1828–1923, p. 21. Peter Brook, Warships for Export, p. 97
  13. ^ a b c Bernd Langensiepen, Ahmet Güleryüz, The Ottoman Steam Navy 1828–1923, p. 21
  14. ^ Conway's All the World's Fighting Ships 1906–1921, p. 389
  15. ^ Lloyd P. Simpson, "The Last of a Type", p. 167
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n o Bernd Langensiepen, Ahmet Güleryüz, The Ottoman Steam Navy 1828–1923, p. 26
  17. ^ Bernd Langensiepen, Ahmet Güleryüz, The Ottoman Steam Navy 1828–1923, p. 26. Peter Brook, Warships for Export, p. 98
  18. ^ Bernd Langensiepen, Ahmet Güleryüz, The Ottoman Steam Navy 1828–1923, pp. 26-27
  19. ^ a b c d e Bernd Langensiepen, Ahmet Güleryüz, The Ottoman Steam Navy 1828–1923, p. 27

参考文献

  • Bernd Langensiepen, Ahmet Güleryüz, The Ottoman Steam Navy 1828–1923, Conway Maritime Press. 1995, ISBN 0-85177-610-8
  • Peter Brook, Warships for Export: Armstrong Warships 1867-1927, World Ship Society, 1999, ISBN 0-905617-89-4
  • Peter Brook, "The Elswick Cruisers Part II: The Later Protected Types", Warship International, September 30, 1971, Vol. 8, No. 3 (September 30, 1971), pp. 246-273
  • Ryan K. Noppen, Ottoman Navy Warships 1914–18, Osprey Publishing, 2015
  • Charles Stephenson, A Box of Sand: The Italo-Ottoman War 1911-1912, Tattered Flag Press, 2014
  • Conway's All the World's Fighting Ships 1906–1921, Conway Maritime Press, 1985, ISBN 0-85177-245-5
  • Lloyd P. Simpson, "The Last of a Type", Warship International, 1973, Vol. 10, No. 2 (1973), pp. 165-169

関連項目

参考図書

  • 「Conway All The World's Fightingships 1860-1905」(Conway)
  • 世界の艦船 増刊第46集 イギリス巡洋艦史」(海人社
  • 「世界史リブレット 小松香織著 オスマン帝国の近代と海軍」(山川出版社)2004年2月出版
  • 「山川歴史モノグラフ 小松香織著 オスマン帝国の海運と海軍」(山川出版社)2002年11月出版

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ハミディイェ (防護巡洋艦)」の関連用語

ハミディイェ (防護巡洋艦)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ハミディイェ (防護巡洋艦)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのハミディイェ (防護巡洋艦) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS